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1880年12月2日朝、城壁を巡らしたリヤードの町のほぼ中心に位置する古い城の一室で、サウード家の当主アブドッラハマーン・ビン・ファイサルに男児が誕生した。男児の名はアブドルアジーズ。今日のサウディアラビア王国建国の祖、後にイブン・サウードと呼ばれた砂漠の覇者の生涯の始まりであった。

人は、幼児期に出会った境遇がその人の人格形成に、そして少年期に接した環境がその人の将来担うことになる役割に大きく影響を及ぼすといわれている。強力な指導者としての資質に恵まれ、底知れぬ器量と行動力をみせたアブドルアジーズ。揺るぎない信仰に支えられ、己の使命を確信したこの偉人を語るにあたっても、その生まれた時代のアラビア半島の状況と、一族をとりまく経済的・文化的な背景から語らないわけにはいかないだろう。


西暦1932年9月22日、アブドルアジーズ王が、ヒジャーズ=ナジド複合王国を「サウディアラビア王国」の名の下に統合したことは、一国の元首としての彼のなみなみならぬ自信のほどを示すものであった。その名、アル・マムラカ アル・アラビーヤ アッサウーディーヤは「サウード家のアラビア王国」を意味し、サウード家が厳然と君臨し支配・統治する王国であることを内外に誇示するものであった。

鍛え抜かれた体格と強靭な意志を兼ねそなえたアブドルアジーズも、この時すでに50代なかばとなり、慢性の眼病で左目はほとんど視力を失っていた。戦闘での古傷で膝も不自由になっていた。1902年、わずか40名の手兵を率いてラシード家からリヤードを奪還して以来、早くも30年の歳月が流れていた。思えば戦いに次ぐ戦いの半生であった。「アラビア半島の王」として君臨することがアッラーから与えられた使命と信じ、その実現のために領土を拡張してきたのであった。


アブドルアジーズが登場した舞台は、荒涼たる不毛の砂漠と、気性荒きこと暴れ馬の如きベドウィンと、絶え間なく離合集散を繰り返す諸侯国からなっていた。この舞台をわずか30年の間に統合し、政治的・経済的・戦略的要衛としての国際的舞台に変貌させたのは、アブドルアジーズ王が傑出した政治的手腕と外交技量を兼ね備えた為政者であったからであることはいうまでもない。では、この王がいかなる特性を備え、いかなる哲学を持っていたのか、それらが彼の政治と外交にいかに反映されたのかを考察してみたい。


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