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国王の業績


―近代サウディアラビア建国の祖―

アブドルアジーズ国王の生涯

 

君臨し統治した英傑王の資質

 

 

アブドルアジーズが登場した舞台は、荒涼たる不毛の砂漠と、気性荒きこと暴れ馬の如きベドウィンと、絶え間なく離合集散を繰り返す諸侯国からなっていた。この舞台をわずか30年の間に統合し、政治的・経済的・戦略的要衛としての国際的舞台に変貌させたのは、アブドルアジーズ王が傑出した政治的手腕と外交技量を兼ね備えた為政者であったからであることはいうまでもない。では、この王がいかなる特性を備え、いかなる哲学を持っていたのか、それらが彼の政治と外交にいかに反映されたのかを考察してみたい。

アブドルアジーズ王と彼の息子と孫たち。(リヤード、1946年)

 

1-アブドルアジーズ王の個性

アブドルアジーズが登場した舞台は、荒涼たる不毛の砂漠と、気性荒きこと暴れ馬の如きベドウィンと、絶え間なく離合集散を繰り返す諸侯国からなっていた。この舞台をわずか30年の間に統合し、政治的・経済的・戦略的要衛としての国際的舞台に変貌させたのは、アブドルアジーズ王が傑出した政治的手腕と外交技量を兼ね備えた為政者であったからであることはいうまでもない。では、この王がいかなる特性を備え、いかなる哲学を持っていたのか、それらが彼の政治と外交にいかに反映されたのかを考察してみたい。

 

アブドルアジーズは幼少の頃より父アブドッラハマーンの薫陶のもとサラフィー思想のイスラームを学んでこれに傾倒していたので、宇宙の森羅万象すべてはアッラーの支配下にあり、従って人間の行動や運命も常にアッラーによって予め定められていると考えた。すべては全能のアッラーの御意としてすでに決められていると考えた。アブドルアジーズの知己を得た人はほとんど皆、王が不撓不屈の精神力とあくなき説得力を備え、たちまち人心を掌握する列強な個性の持ち主であったと証言している。王は論理的理由づけと歴史的知識に基づいて理路整然と自らの信ずるところを主張する優れた論客であった。

 

主義と権利を主張する時は決して妥協も譲歩もしない反面、自分のものでもなく祖先が享受もしなかったものを要求することはしなかった。彼の言「祖先が権利としたものは我々の権利でもある。もしそれが友好裡に手に入れられなければ剣によって手に入れるしかない」がそれをよく表現している。

 

彼は自分の能力に確固たる自信と信念を持っており、彼の立ち居振る舞いがその自信のほどを物語っていた。冷静にして果断に富み、衝動的にも感情的にもならなかった。王は争いごとが生じるとそれを個人的な問題として扱わず、常に原則や利害に照らして処理した。駐メソポタミア英国高等弁務官サー・パーシー・コックスはアブドルアジーズを評して、「王は英傑としての数多の資質を備えている。強く、恐れを知らず、直截明快である。嵐のような混沌の中で理性を失いそうな状態にあっても、彼は明快な考え方をし、好き嫌いについても正直である。自分の求めるものが何であるか、何が最善であるか、与えられた時間内にどれだけのものが得られるかをよく認識している」と述べている。

 

実際、アブドルアジーズの好機を逃さぬ感覚、潮時を判断する勘は実に鋭かった。戦法においても、いつ兵を進めて積極戦に出るべきか、いつ兵をとどめて敵の出方を待つべきかをよく心得ていた。前進や退却の時機も、交戦や和平のチャンスも、勝ち戦や負け戦の見通しも、強引に出るか柔軟に出るか、強硬な態度で臨むか妥協するかなども、本能的に判断した。戦略と戦術を厳密に区別し、二歩前進するために一歩後退することも珍しくなかった。思い付きや行き当たりばったりの物事運びは決してせず、常に慎重かつ決然と行動した。

 

アブドルアジーズのアラビア半島統一までの道程は、一瞬の油断も許されない綱渡りに等しかった。彼のもとに参集する多種多様な部族軍はそれぞれの利害、目的、価値観が異なるだけでなく気性までが違っており、これを単一の軍律のもとに統率するためには不断の監視を必要とした。もし彼の決定や指令を受け取る側に微妙な食い違いが生じた場合は大惨事につながり、これまでの悪戦苦闘は一瞬にして水泡に帰するのであった。しかしアブドルアジーズの性格には大胆不敵と、石橋を叩いて渡る極限の警戒心が共存しており、彼はこの両方をいかんなく発揮した。

 

この性格は彼が幼少時代の1891年から2年間の砂漠生活で培われた。砂漠は土塀も家屋も境界もない無防備な環境であった。自分の身は自分で守るよりほかはなかった。このような性格はアブドルアジーズがとった主だった行動や、彼が立案した計画の中によく窺い知ることができる。

 

2-アブドルアジーズ王の外交法則

アブドルアジーズは正規の教育を受けてはいなかったが、外交をいかに成功させるかとか、優れた外交官に必要な原則とは何かを熟知し実践する能力をもっていた。読書と見識を高めることへの飽くなき欲求を父から受け継ぐ一方で、彼の天性の才能は彼が生きた時代と大きな出来事を通じて磨き上げられ、さらに豊富な経験を通じて生粋の外交官、職業軍人、老練な政治家にもまさるものに成熟していった。

 

彼は歴史を好んで学び、歴史から得られる教訓を師とした。クウェイト亡命中に彼が学んだのも歴史の教訓であった。サバーハ家の英邁な首長ムバーラクが巧みに英国をオスマントルコに対立させてクウェイトの安全保障という漁夫の利を占めていたのを目の当たりにしたが、これこそ彼が最初に学んだ外交学であった。この漁夫の利は小国クウェイトには不釣合いなほど大きな利であった。これによって彼が学んだものは「軍事的勝利は必ずしも政治的優位に直結しない」という法則であった。

 

この法則は多くの示唆をアブドルアジーズに与えた。例えば、敵に直面した場合は敵の力に合わせるか、それを無効にするか、あるいはそれと均衡を保つことが必要であることを彼に教えた。国際政治の真っただ中に追い込まれて弱い立場にあっても、そのために台風に吹き飛ばされずに済み、かえって国際間の微妙なバランスを保つ上で重要であることを、彼は認識したのであった。同時に、軍事力は外交の中に巧みに織り込まれるべきものであり、いかに強大な軍事力も決して充分とはなり得ないことにも気がついたのであった。歴史上多くの国が強大な軍隊を所有したのは外交が遅れていて目的を達成できなかったからであった。他方、外交が軍事力の前方を進んでいた国は国際的影響力をもつ国に成長した。19世紀末の世界の勢力地図はそれを如実に物語っていた。

 

巧妙な外交を展開して湾岸に着々と地歩固めていた英国についてアブドルアジーズは次ぎのように分析した。

1-英国は国の命運を制するほど重要な利害関係を湾岸に持ち、積極的にその利害の防衛に努めている。

2-英国は友好国との約束を守る信頼するに足る国である。

3-英国は敵にまわしてはならない国である。敵にまわせば仮借なき報復措置に出る。

4-生き馬の目を抜くような国際政治の駆け引きにあって考慮されるのは利害関係だけである。その防衛のためには英国もクウェイトも誰かれかまわず利用する。

 

この分析を通じてアブドルアジーズは一つの結論を導き出した。それは「自分が生き残って目的を達成するためには、自分の大切な利益を守るだけでなく自分自身の独立も維持しなければならない」であった。

 

アブドルアジーズがリヤードを奪回した時、英国は彼がいかなる目標をもっているのか判然とせず、彼が湾岸にある英国の同盟諸国を脅かすのではないかという懸念をもっていた。しかし英国はナジドに対する軍事干渉をしないようオスマントルコに警告した。これは英国が、サウード家をラシード家に対する対抗勢力として利用し、双方が度を越えない限度内で常に敵対する状況を作り出そうと考えていたからである。さらに英国は、独立したナジド国王にオスマントルコと湾岸の間の緩衝国的役割を果たさせようとも考えていた。

 

父祖伝来の領域を回復することが終局の目標であったアブドルアジーズは、周辺の侯国、首長諸国、外国勢力を刺激して無用の介入を誘発しないよう慎重に行動した。彼は湾岸の首長諸国に対して領土的野心のないことを宣言して安心させ、オスマントルコやラシード側を油断させておいて、機の熟するのを待った。

 

1910年代が始まると国際情勢が東に向かって動いていることにアブドルアジーズは気づいた。1911年にイタリアがオスマントルコ領のトリポリタニア(現在のリビア)を占領したし、翌1912年にはバルカン半島でもギリシア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロがロシアの指導下にバルカン同盟を結成してトルコ領マケドニアを占領した。このバルカン諸民族の独立運動はオスマントルコの弱体化に拍車をかけた。国内の不統一と列強の露骨な介入に喘ぎながらも、オスマントルコはアラビア半島に台頭して来たアブドルアジーズに対する抑止力としてラシード家をはじめとする諸部族を煽動していた。この頃までのアブドルアジーズは内陸に閉じ込められて海に出ることのできない、いわば中央アラビアの囚人であった。西のヒジャーズにはオスマントルコ庇護下のシャリーフ家が君臨し、北にもトルコの支援を受けるラシード家あり、南には人間の侵入を阻む「虚無の砂漠」ルブウルハーリーが荒涼と広がり、東のハサーにはトルコ軍が立て籠もり、アブドルアジーズはナジドに封じ込まれていた。彼の領土には辛うじて自給自足が可能なナツメヤシ農業と、羊やラクダの飼育以外に何の資源もなかった。とりわけ旱魃に襲われた時の悲惨さは筆舌に尽くし難かった。何としてもアラビア湾への出口が欲しかった。1913年、彼は無謀ともいえるハサー攻略を決行し成功したのであった。

 

3-アブドルアジーズ王の歴史観と戦略

アラブの伝説によると、ハサー地方はイブラーヒーム(アブラハム)がカルデア王国のウルに移住する以前に住んでいた最初の故郷であるという。イブラーヒームは一神教の開祖とされ、ユダヤ教の開祖であると同時にイスラームの開祖でもある。イブラーヒームの長子イスマーイール(イシュマイル)は北アラブ族の祖、次子イスハーク(イサク)はユダヤ族の祖とされる。預言者ムハンマドはこのイスマーイールの末裔であるとされるので、ムハンマドの系譜はイブラーヒームにまで遡ることになる。クルアーンはイブラーヒーム、イスマーイールの二人を預言者に数えており、この二人が人類の祖アーダム(アダム)が建てたカアバ神殿を再建したと記している。従ってムスリムは、カアバ神殿の近くにあるイブラーヒームの立所やイスマーイールの場所は、この故事を証拠立てる聖跡であると考えている。

 

上述の如くイスラームが「イブラーヒームの宗教」と呼ばれる一神教に始まることやイブラーヒームの故郷がハサー地方であることに加えて、1793年から1871年までハサーはサウード家が領有していた歴史があった。アラビア湾に面したオカイル港からは関税収入を得ることができ、この地方産出のハラス種ナツメヤシは小粒ながら透き通った色合いと高い糖度で最高級品のほまれが高く高価格で輸出された。1871年にハサーをトルコに奪われたことはサウード家の財政に大きな打撃を与えていた。「祖先が権利としたもの」ハサーは「我々の権利」として奪い返すべきものであった。

 

アブドルアジーズはハサー攻略を準備した。1871年以来、オスマントルコはハサーを自らの領土としてホフーフに軍を駐留させていた。英国も今世紀初頭以来、クウェイト、バハレイン、休戦海岸諸国など、アラビア湾岸に拠点を築きつつあった。ハサーを占領した場合、オスマントルコと英国はどのように反応するであろうか。もはや瀕死の病人となったトルコはアブドルアジーズに反撃する余力はなく、彼のハサー占領を既成事実として認めざるを得ないであろう。片や英国は、アブドルアジーズの湾岸進出に不快感を抱いたとしても、トルコ軍が放逐されたことを歓迎するはずだ。とりわけ、トルコに与してアラビア湾進出を企てるドイツの脅威に去勢効果を与えることになり、英国には疑いもなく安心材料となる。

 

1910年にサー・パーシー・コックスの後任として駐クウェイト英国政務官となったウイリアム・シェイクスピアは1913年5月、ナジド北部のマジュマアでアブドルアジーズと会談した。王はハサー攻略とトルコ勢力撃退の決意を告げ、トルコが海上から反撃できないよう支援してほしいと要請した。また、そのため英国と正式な外交関係を結びたい旨を申し入れた。シェイクスピアは驚き、トルコは老いたりといえども世界の大国であり軽軽に過少評価してはならないこと、王は立ちどころに撃退され、これまでの蓄積のすべてを失うことになること、それに英国政府は王のトルコ軍攻撃に何らの援助もしないことを告げた。アブドルアジーズは失望の色を見せた。

 

ウイリアム・シェイクスピアはこの会談に関する報告を本国のサー・パーシー・コックスに打電した。ところがその直後、シェイクスピアはアブドルアジーズがハサーを攻略し、カタルに至る480キロの海岸線を掌握したという知らせを受け取ったのである。

 

アブドルアジーズの計算と分析は正しかった。アブドルアジーズは1902年初頭のリヤード奪回の時と同様、夜陰に乗じてホフーフのトルコ軍要塞を奇襲した。彼の兵力300名に対して1,200名のトルコ守備軍はほとんど無抵抗で降伏し、全員を無事に撤退させてくれるようアブドルアジーズに懇願したのち、ハサーから永遠に立ち去った。アブドルアジーズは遂にアラビア湾への出口を確保した。豊かな水産資源、豊穣な農地、多額の関税収入をもたらす最良の領土を手に入れたのであった。この時アブドルアジーズは自分が地球上最大規模の油田の集中する地域を領有したことを知る由もなかった。

 

ドイツに湾岸進出の口実を与えないようオスマントルコを刺激することを避け、1902年にアブドルアジーズが支援を求めた時も言質を与えず、その後も彼の存在を意図的に無視してきた英国はやっとこの時、彼を軽視すべからざる存在として本気で考えるようになった。英国はオスマントルコをドイツ陣営から連合陣営に引き寄せる苦心をしてきたが、アブドルアジーズの急襲に敢え無く敗退して、図らずも衰残の極みを露呈したトルコは、もはや英国が重きをおく国ではなくなったのである。以後、英国の政治計算式の中にはアブドルアジーズとその国がパラメーターとして常に考慮されることとなる。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発すると英国はドイツに宣戦布告し、哀れドイツ側について大戦に引きずり込まれたオスマントルコも英国の敵となった。英国政府はアブドルアジーズを英国の同盟者として確保することを決め、ウイリアム・シェイクスピアをアブドルアジーズのもとに送った。アブドルアジーズは軍を率いてリヤードの北320キロ、アルターウィーヤの近くでラシード軍と交戦中であったが、訪ねて来たシェイクスピアを快く迎えた。

 

シェイクスピアは英国政府の方針と自分の来訪目的を話した。これまで言を左右にして来た英国が、この際アブドルアジーズと同盟関係を正式に結んで彼にもトルコに敵対させようというのであった。アブドルアジーズは不愉快であった。つい半年前、アブドルアジーズがホフーフのトルコ軍を攻撃するに先立って英国の援助を要請した時には断ったではないか。その舌の根の乾かぬうちに、英国に与してトルコと敵対することを約束せよとは手前勝手が過ぎる。

 

しかし、すでに10年以上も英国との条約締結を待ち望んで来たアブドルアジーズは、シェイクスピアと条約の草案作成にかかった。その内容は、英国はアブドルアジーズの国の独立を承認・保証することなどであった。アブドルアジーズにとって当面の敵国はラシード侯国であった。

 

この草案は本国に送られた。ところが本国からの回答を待っている間にシェイクスピアはラシード軍の凶弾に倒れた。アブドルアジーズは誠実な英国人アラビストの死を心から悼んだ。数か月後、草案を承認する旨の通知が届いた。1915年末、サー・パーシー・コックスとアブドルアジーズの間で条約が調印され、アブドルアジーズは毎月5,000ドルの支援金を受け取ることになった。

 

4-民心の把握に機敏

第一級の政治家や外交官に必要不可欠な資質は、物事の行間を読む能力、出来事を正確に理解する把握力、敏速に行動してチャンスを活かす能力などであるが、アブドルアジーズは先天的にこれらの政治感覚に優れていた。1922年12月、アブドルアジーズはイラクのファイサルから書簡を受け取った。その中でファイサルはアブドルアジーズを「親愛なるわが兄弟」と呼んだ。アブドルアジーズはこれをファイサルからの和解の信号と理解した。ファイサルの父であるマッカのフセイン大公はアブドルアジーズに激しい敵意を抱いていたが、息子は父の意に反してアブドルアジーズと親睦関係を結ぶ意向を示してきたのであった。

 

アブドルアジーズはまた、世のすべての出来事がどのように展開するかを決定する政治的、人口統計的、心理的な要因に格別の関心を寄せた。彼のいかなる政治行動にも、経済計画や社会改革にも、その中に深い心理学的洞察や人民への理解が示され、なかんずく人民の考え方や目的意識などが考慮に入れられた。彼は人の心を射抜くような鋭い眼力で人民を観察評価し、彼らの内面の心理状態や関心までも知り尽くして彼らと接した。このようなアプローチは、どの時点で優勢に立つか、どの時点で劣勢を最小限にとどめるかを知る上で、大いに役立った。こうして彼は不必要に譲歩することも過度に強要することも避けることができた。

 

アブドルアジーズ王は指導者を「愛されるが恐れられもせず尊敬されもしないタイプ」「恐れられるが愛されもせず尊敬されもしないタイプ」「恐れられないが愛され尊敬されるタイプ」の3種類に分類した。彼が好んだのは最後のタイプであった。普通の市民についても「自らの意見を持つが他人にも相談するタイプは男である」「自らの意見を持たないで人に相談するタイプは半男である」「自らの意見も持たず人にも相談しないタイプは男にあらず」の3種類に分類した。

 

また、彼は、嘘つき、気まぐれ、ごますりの3種類の人間を蔑視し、臣下に率直、正直、忠誠を要求し、ごますりと偽善ほど、為政者とその子孫たちを腐敗堕落させたものはないと戒めた。知識層に対しても、表現上の見せかけや欺瞞を禁じ「為政者と知識層が互いに防御しようと申し合わせる時は常に人民の権利が失われ、その結果、アッラーの禁ずるところであるが、私たちは地上世界と天上世界の両方を失うことになる」と説いた。王は国民との意思疎通の手段を常時利用可能な状態にしておくよう求めた。「苦情の相手がプリンスであろうと大臣であろうと、苦情があれば直ちに口頭で私に言いなさい。不正を被っている者が遠方なら、郵便代はこちらが負担するから、郵便で苦情を言って来なさい。誰かが不正な扱いを受けていると聞くのを私は好まない。不正が行われたり、不正が正されず正義が否定されたりすることについて、私はアッラーの前に責任を持つ立場にあるからである。もし窮状にあって沈黙している者は、その者自身が責められることになる」と言うのが常であった。

 

王はあたかも指先で患者の脈拍を計るように、国民が何を求めているか、どんな問題を抱えているかについて誠心誠意の心配をした。民生への気遣いこそ、王が為政者として成功した鍵の一つであったことはいうまでもなく。だからこそアブドルアジーズ王を支持する誰もが、地の果てまでも王に付き従うことを厭わなかった。時として彼らも逡巡したり不承不承におちいることがあったが、そのような時はアブドルアジーズ王自身が勇武の何たるか、挺身の何たるかの範を垂れて士気を鼓舞するのであった。ある時、戦場に赴くに先立ち王は兵に言った。「私と共に来る意思のある者は一歩前に出よ。安穏の生活を選ぶ者は家族のもとへ帰るがよい。アッラーにかけて言う、私は勝利して帰還するか、しからずんば死を成就して帰還しよう」…。王の決意のほどに心を打たれた兵たちの戦意が高揚したことは言うまでもない。

 

5-祖先の権利・義務は予の権利・義務なり

アブドルアジーズの統率力と指導力が最も発揮されたのは1924年、彼がヒジャーズを攻略した時であった。宿敵マッカ大公フセインを倒してヒジャーズを奪回することはアブドルアジーズの悲願であった。19世紀初め、ナジドのサウード家はマッカとマディーナの二大聖地を掌中におさめ、これらの地を守ることを聖務としていた。祖先が義務とし権利としたものはアブドルアジーズにとってもやはり権利であり義務であり、この責務を再び負うことが彼の究極の使命であった。

 

20世紀に入って久しかったがアラビア半島の国々の国境は定かではなかった。アブドルアジーズのナジドとヒジャーズとの国境も、ナジドとイラクやトランスヨルダンとの国境も未確定であった。英国はこれら懸案問題討議の会談を持とうと呼びかけたがマッカのフセイン大公はこれを無視した。アブドルアジーズは英国とフセインの関係が良好でないことを悟り、彼がヒジャーズを攻略しても英国は介入して来ないであろうと計算した。さらにアブドルアジーズにヒジャーズ攻略の決意を促したのは、フセインのカリフ宣言であった。アブドルアジーズはフセインをムスリムの風上にもおけない異端者として蔑視していた。その者がこともあろうに預言者ムハンマドの後継者であり、イスラーム世界最高の精神的指導者であるカリフ職への就任を宣言したのである。

 

もはや平和的解決の望みなしと判断したアブドルアジーズは武力解決に踏み切った。彼の同胞団部隊はターイフに向かい、フセイン大公の長男アリーの率いる守備隊に猛攻を浴びせた。守備隊はたちまち散乱して敗走し、アリーはジェッダに逃れた。同胞団はターイフの町を破壊し、殺戮と略奪をほしいままにし、少なくとも300人の市民が惨殺された。リヤードでこれを伝え聞いたアブドルアジーズは直ちに無法行為の禁止を命じ、自分が指示するまでフセインの居すわる聖地マッカへの進攻を待つよう命令した。ターイフにおける同胞団の残虐行為は次ぎの標的であったマッカの市民の心胆を寒からしめ、市民はこぞってフセイン大公に退位を迫った。フセインは英国に援助を求めたが、英国はこれを無視した。市民にも英国にも見放されたフセインは1924年10月、大公位を息子アリーに譲るとマッカを離れ、ジェッダから海路アカバに向かって脱出した。この時、彼は金貨80万ポンド、マッカ巡礼者から徴収した巡礼税16年分の利息、アラブの反乱に対する英国の援助金のほとんどを持ち去った。フセイン大公の逃亡を知るや、同胞団の襲来を恐れるマッカ市民も住居や店舗を捨てて四方八方に避難した。過疎の町となったマッカは周辺のベドウィンによる破壊と略奪でゴーストタウンと化し、巡礼姿で到着したアブドルアジーズに無抵抗で開城した。この聖地では兵たちは破壊も略奪もしなかった。マッカ市民は、恐れを知らぬ同胞団の兵たちにも畏怖の念を抱くもののあることを知って安堵した。

 

悲願のマッカ奪回を果たしたアブドルアジーズの次なる目標はシャリーフ家最後の牙城ジェッダであった。フセイン逃亡のあとを継いだアリーが死力を尽くして徹底抗戦に出て来ることは充分に予測できた。事実、ジェッダは迫り来る同胞団との交戦に備えて有刺鉄線を張り巡らし、地雷で防衛線を固めていた。アブドルアジーズにとり一か八かの大勝負であり危険な賭けでもあった。さらにアブドルアジーズにジェッダ攻撃を躊躇させたのは、ジェッダには西欧諸国がすでに平和使節団と称して公館を開設しており、戦火の危険が西欧外交官らの身に及んで無用の介入を招く可能性のあることであった。ジェッダに向けて進軍すべきか否かの厳しい選択を迫られたアブドルアジーズは補佐官たちの意見を聞いた。彼らは答えた。「陛下、私たちはこの戦を早く終わらせるために陛下がここへおいでになったのだと思っておりましたが、陛下は逆に進軍を逡巡しておられます。アリーとの対決をためらう正当な理由があるのですか。もし陛下がわれわれの中から犠牲者を出したくないと思し召しならば、陛下に申し上げましょう。誰でも天命が来れば死ぬのです」

 

兵士たちの決死の覚悟に勇気づけられたアブドルアジーズは直ちに進軍を命じ、ジェッダを包囲した。彼はジェッダを攻撃しようと思えばた易くできたが、駐在外国使節団への危険を考慮して長期の兵糧攻めに持ち込んだ。戦意高揚極まった同胞団部隊とは対照的に、アリー大公指揮下のシャリーフ軍の士気は萎縮沈滞していた。この包囲戦のなかばに聖なるラマダーン月(断食をする月)と巡礼月があり、アブドルアジーズはジェッダ北方のラービグと南方のリースの2港を確保してマッカ巡礼の安全を保障した。フセイン大公時代に立ち入りを断られていたナジドからの巡礼者が歓喜したことはいうまでもない。

 

アブドルアジーズのジェッダ攻略が完了する前に、彼の息子のファイサルが率いる同胞団部隊にマディーナが降伏した。敗色濃くなったアリーはジェッダを安全に脱出させてくれとアブドルアジーズに懇請して降伏した。1925年12月、アリーはイラクに亡命し、シャリーフ家のヒジャーズ国は滅亡した。1926年1月、アブドルアジーズはマッカにおいてヒジャーズの王を宣言し、遂に彼は東にアラビア湾を持ち、西に紅海を持つ大国の王となった。

 

6-卓抜した外交手腕

アブドルアジーズ王の50余年に亘る業績を分析する人は誰しも王の優れた外交手腕と機敏な政治的判断力に感銘を受ける。武器となるものが言葉だけであったりチャンスをものにしただけの、ありきたりの外交官と違って、アブドルアジーズ王は、勝利か、さもなくば彼のために死をも厭わない兵士たちによって支えられていた。事実、アブドルアジーズは人の心をとらえるカリスマ性と人間的魅力を兼ね備えていた。例えば1904年、宿敵ラシード家とオスマントルコの強力な混成軍とブカイリーヤにおいて対峙し、アブドルアジーズが長引く苦戦ののち勝利をおさめたのは、彼が微笑みかけてくれることに喜びを感じ、握手をしてくれることに幸福を見出だし、抱擁してくれることで勇気を奮い起こした兵士たちの勇猛果敢な戦闘のお陰であった。

 

彼の残した数々の偉業は、確かに彼が幸運であったことを物語ってはいる。しかし彼の成功に次ぐ成功を幸運のみに帰することはできない。彼がほとんど不可能に近い夢を実現してしまう非凡な資質の持ち主であったことは疑う余地もなく、彼が関わりを持った者の誰もがそれを認めているが、やはり注目すべきは王が意志強固にして精励勤勉の人であったことであろう。王は正規の教育を受けてはいなかったが、熱烈な向学心に加えて天性の洞察力はそれを補って余りあるものがあった。とりわけ、アブドルアジーズ王が対外政策に見せた手腕は、武力外交の何たるかの知識と直感的洞察を実際の場面に応用したものであった。

 

アブドルアジーズ王は「意志あるところ道は開ける」を信条とし、決意、忍耐、勇気、現実主義、それに少しの運も手伝って、歴史上わずかな者しか成し得なかった国土統一の覇業を成し遂げた。彼は「もし」という仮定や、「しかし」とか「であるのに」という逆接などで悲観的になるのを潔しとしなかった。彼は障害にぶつかるとそれに挑戦し、問題に直面するとそこからチャンスを引き出した。

 

概して歴史上の出来事や功績は時の流れの中に色褪せていくものであるが、前途洋々の恵まれたスタートを切った国の統治者と違って、無一物同様から立ち上がったアブドルアジーズが成し遂げたものは不朽不滅の偉功と言っても過言ではない。史上、潜在的な可能性を持ちながら、何らかの理由でそれを真の実力に転成させることができなかった国家指導者たちがいる。このような人たちは、いろいろな才能に恵まれながら、潜在的可能性を活かす能力を欠いた人たちであった。彼らはあたかもカードで組み立てた家がテストをする前に壊れてしまうように、成功の見込みのない計画を立てる人たちであった。自分の使う原材料―それが人的、社会的、政治的、経済的材料であれ物理的環境であれ―を熟知する者こそが真の指導者たり得るのである。この観点から見ると、アブドルアジーズがアラビア半島の地図と政治に新しい線を画す進路を見きわめる鋭敏な洞察性をもっていたことがよくわかる。

 

アブドルアジーズの歩んだ道程は最初から険しかった。絶えざる部族間抗争で国土は寸断され、内には恐るべき仇敵がいたし、外からは強大な二つの外国勢力、オスマントルコと英国が圧迫を加えていた。1902年、弱冠21歳のアブドルアジーズがラシード家の手からリヤードを奪回してナジドにサウード家の支配を回復した頃、英国はすでに世界最大の植民地を領有し、七つの海に君臨する大帝国となっていたが、湾岸地域での足場を確立せんとして、早くからこの地域に進出していたオスマントルコを牽制することに腐心していた。英国はいち早く1839年に紅海の入り口のアデンを植民地としておさえる一方、アラビア湾でも1775年以来東インド会社の物品をクウェイト経由でアレッポに輸送していた関係で、クウェイトをオスマントルコの脅威から保護していた。1898年にドイツが3B政策を掲げてバルカン半島経由バグダードに至る鉄道を敷設しようとしたのを機に、3C政策を掲げる英国はウェイトと協定を結んでクウェイトにおける英国の権利を認めさせ、その代わりにクウェイトの安全を保障した。3B政策とは19世紀末から第一次世界大戦に至るドイツの近東政策で、ベルリンからオーストリアを経てバグダードからアラビア湾に至る地域に鉄道を敷設し、これらの地域を政治的・経済的に支配しようとする構想で、ベルリン(Berlin)、ビザンチン(Bizantium現在のイスタンブール)、バグダード(Baghdad)の頭文字をとって名付けられた。一方、3C政策とはアフリカとインドを結ぶ英国の帝国主義政策で、カイロ(Cairo)、ケープタウン(Capetown)、カルカッタ(Calcutta)の頭文字から名付けられたもので、3B政策と真っ向から対立するものであった。英国はそのほかロシアやフランスなどの湾岸への進出にも先制的抑止を加える必要があったので、バハレイン、休戦海岸諸国(アブダビ、ドバイ、シャルジャ)、オマーンとも条約を結び、安全保障と引き替えにこれら諸国の対外関係を英国に管理させることを約させ、湾内での航行ルートを確保した。

 

一方、オスマントルコはもはや「瀕死の病人」と揶揄される老帝国ではあったが、マッカを擁するヒジャーズ地方を掌握する一方で、ナジドにおける支配権をも要求していた。あらゆる面で裸一貫の状態から立ち上がったばかりのアブドルアジーズにとって、巨人オスマントルコは老いたりといえども無気味な存在であった。彼は亡命先のクウェイトで、オスマントルコの威圧に苦しんだサバーハ家の首長らが英国に保護を求め、それが効を奏しているのを目の当たりにしていた。英国は湾岸の弱小諸侯が最も頼り甲斐のある外国勢力になっていた。すぐ北のハーイルに宿敵ラシード家あり、西のヒジャーズにシャリーフ家あり、いずれもオスマントルコと同盟を結んでいた。東のハサーはオスマントルコが直接支配していた。南を向けばオスマントルコから独立したイェメンがアシールやナジュラーンを侵していた。孤立無援のアブドルアジーズは英国との関係樹立を急がねばならなかった。とりわけ、アブドルアジーズにリヤードを奪われて無念やるかたないラシード家は復讐の念に燃え、アブドルアジーズ打倒のためトルコの援助を得て準備おさおさ怠りなかった。アブドルアジーズの天下平定事業においてラシード家は最初に除去しなければならない障害であったので、アブドルアジーズは1902年にリヤードを奪回すると、ただちにラシード家討伐の行動を起こす一方で英国の保護を求めた。

 

アブドルアジーズの要請に対して英国は慎重に対応した。湾岸航行の安全を確保した英国は、アブドルアジーズに肩入れするあまり、オスマントルコと直接対決せざるを得ない状況に立ち至るのを避けたかったし、他人を守ってやるために中央アラビアの砂漠に深入りする愚も避けたかった。殊にオスマントルコを怒らせた場合は、アラビア湾進出の機会を狙うドイツに介入のチャンスを与え、欧州列国の微妙なバランスを崩す恐れがあった。1904年、英国は同じくドイツの野心を警戒するフランスと英仏協約を結んだが、オスマントルコの反感を買いドイツを刺激してアラビア湾進出の口実を与えないよう、アブドルアジーズの要請を保留していた。アブドルアジーズは英国の立場を熟知していたが、オスマントルコがラシード家に加勢して早晩サウード家打倒の挙に出ることを予測していた。

 

果たせるかな1904年夏、2,400人からなるトルコ軍がメソポタミアから南下、ハーイルのラシード軍と合流して中央アラビアに進撃して来た。アブドルアジーズの軍はブカイリーヤにこれを迎え撃ち、彼自身は重傷を負ったが、勇猛果敢な司令官として陣頭指揮をとり、ゲリラ戦を展開してラシード=トルコ合同軍の武器弾薬を奪い、夜陰に乗じて敵の将兵を殺戮したので合同軍は体勢を寸断され、3カ月におよぶ死闘はアブドルアジーズの勝利に帰した。

 

アブドルアジーズの勝利は彼が独力で勝ち取ったものであった。作戦はすべて彼自身が独りで決定し、その決定に責任をもたねばならなかった。しかし彼は手に負えないベドウィンを服従させ、強敵の裏をかくのに驚くべき熟練さを見せたのであった。

 

7-ベドウィン定着政策

アブドルアジーズが国土を近代国家に統一していく過程で最も苦労したのは、自由奔放で手に負えないベドウィンを自分の指揮下に置いて命令に従わせることであった。彼が求める近代国家の基本的要件は国民の定住であり、絶えず移動する遊牧部族と意見が衝突するのは当然であった。彼の近代化政策がベドウィンや保守的な部族の強い反発を招き、伝統的な部族社会の考え方が近代国家思想と両立しないことは明らかであった。

 

ベドウィンはあらゆる場面でアブドルアジーズに反抗し、彼の言うことにかたくなに耳を貸そうとしなかった。人を幻惑するように振る舞い、誇りは高く、徹底した個人主義と旺盛な独立心で行動する遊牧民は、途方もなく慰撫しがたい存在であった。事実、ビン・ジルウィー(1902年、アブドルアジーズと共にリヤード攻撃に参加した)はアブドルアジーズに「ベドウィンに手出しするのはスズメバチの巣をおもちゃにするようなものだ。厄介なことが起こることは確かだが、どれほど厄介なことになるか誰も予想できない」と忠告したほどであった。

 

遊牧部族民は指導者の人となりとか、部族間の抗争とか、氏族内部の人間関係とか、いろいろな条件によって、ある一人の支配者を支持すると同時にそのライバルも支持する習性があった。アブドルアジーズが領土の平定と拡大を進める上で、忠誠心常ならぬベドウィンを敵にまわすことは、外国勢力の干渉や妨害よりもはるかに厄介な問題であった。彼が為政者としての地歩を確立するための必須の要件は、ベドウィンを完全に掌握して服従させることであった。彼はまずお膝元のナジドに秩序を確立しなければアラビア半島全体の統一は不可能であると考えた。しからばナジドの秩序確立のためには何から手をつければよいか…。

 

たまたま1910年にナジドやクウェイトに猛威を振るった旱魃でベドウィンはラクダや羊のほとんどを失い、飢饉は多くの人命を奪った。牧草を求めて移動する遊牧生活は自然条件の全面的支配を受け、ベドウィンはしばしば生命の危険にさらされていた。ベドウィンを従順させるには、この危険から彼らを救い出し彼らの生活を安定させてやることが必要であった。しかもその方法はアブドルアジーズが思い描く新国家の社会的、経済的、政治的な必要性を満たす、現実的なものでなくてはならなかった。

 

そこでアブドルアジーズが考えついたのが、ベドウィンを永久に土地に縛り付けてそこに定住させるという画期的な解決方法であった。ベドウィンを定住させて農耕に従事させ、同時に彼らの闘争本能を活かして兵士として徴用する…。また、こうして成立する共同体組織を、かつてムハンマド・ビン・アブドルワッハーブ(1703-92)が唱えた「初期イスラームへの復帰」の実践母体とし、民衆を一つの宗教思想のもとに統合しながらアラビア半島に近代的な統一国家を実現する…。アブドルアジーズはこの壮大な構想を実行に移すのを躊躇しなかった。早速、彼は遊牧民諸部族にイスラームの教師を派遣して、ベドウィンに初期の純粋なイスラームへの復帰運動に参加するよう呼びかけた。

 

アブドルアジーズの呼びかけに応じて馳せ参じたベドウィンたちは同胞団と呼ばれ、農地、農具、種苗、日常生活費、自己防衛のための武器などを与えられて定住を始めた。モスクが建てられ、教師が派遣され、同胞団となったベドウィンたちにイスラームの教えや礼拝の仕方などを説いた。同胞団最初の定住はナジド北部のアルターウィーヤという所で1912年に始まり、1万人もの遊牧民が入植した。やがてナジドのあちこちの戦略的拠点に数十の同胞団開拓村ができた。そのうち、リヤードの西方ガトガトの開拓村は首都防衛上最たる要衝であった。これらの同胞団こそがアブドルアジーズの増大する兵力の中核を占めるエリート軍団となっていった。

 

彼の民族国家が形成されていくにつれて、同胞団の部族主義傾向は徐々に薄れ、政治的忠誠心が部族に帰せられるべきものではなく国家に帰せられるべきものであるとの意識が高まり、次第に愛国主義的様相を帯びていった。この定住計画により、ベドウィンたちはもう襲撃や略奪に神経を使う必要はなくなったし、人々も移動の安全に危惧の念を抱かなくてもよくなった。まさに一石二鳥の実に巧妙な計画であった。アブドルアジーズがこの計画を断行したのは、国土統一への熾烈な闘いのさなかであったことを考えると、彼の実行力は高く評価されよう。この計画の実施により経済的、社会的、政治的に根本的な変革がもたらされ、誰もが近代化と愛国心を旗印にすすんで新しい責任を負うようになっていった。このような過程の中から恒久的軍隊が設置され、それによって防衛された安全な社会が形成されていった。

 

8-アラブの団結先唱

多数の西欧人との出会いや多年にわたる付き合いを通じて客観的にムスリム世界を眺めることができるようになっていたアブドルアジーズは、互いの主義主張が相容れず容易に纏まらないムスリムの社会に失望してはいたが、それだけにムスリムを取り巻く問題をよく認識していた。彼は団結こそがムスリムの力の本領であることを絶えず説いて、結束を呼びかける一方、自分たちの身の上に降りかかったことをすべて第三者の責に帰して自らに責なしとするムスリムの考え方や態度にも反省を促した。彼はアラブの結束を説いた先駆者の一人であったということができる。第一次世界大戦勃発当初も、アブドルアジーズは、大戦の災禍がアラブ世界に及ぶのを回避しようとするならば、アラブが確固たる統一政策のもとに一致団結することが必要であると先唱し、クウェイト、ヒジャーズ、ハーイルなどの首長にそのような統一政策を討議・決定する緊急会議を開催しようと呼びかけた。長年来敵対関係にあったオスマントルコに対しても、アラブが自らの運命を決定することができるよう中立国での会議開催を呼びかけてほしいと要請した。アラブが一つの政治的ブロックを結成して団結するか、オスマントルコの宗主権のもとに共通の利害関係によって結ばれた別の体制をつくるかは、アラブの裁量次第であった。いずれにせよアブドルアジーズは、アラブとムスリムが連帯を成し遂げた暁には地上の何者もアラブを攻撃したり汚辱することはできないと真剣に考えていた。しかし彼の提案は彼が自分の立場を強化し影響力を拡張してアラブ世界のリーダーになろうとする策略に過ぎないという疑念をもって迎えられ、彼の折角の努力も水泡に帰した。

 

第一次大戦中、英国がオスマントルコ領内のアラブ人に反トルコ戦線の結成を求め、その代償として大戦後に独立アラブ国家の樹立を約束した(フセイン=マクマホン協定1915年)。これに刺激されてアラブ人の独立運動は盛んになっていった。ところがアラブ独立後の国境が不明確であり、他方で英国は、フランスにシリアの領有を認める秘密協定を結び(サイクス=ピコ協定1916年)、さらにユダヤ人に対しても英国への戦費支援と引きかえにパレスチナにおける国家建設を承認した(バルフォア宣言1917年)。これらの矛盾する約束のうち、英国は独立アラブ国家の建設を履行せず、パレスチナを自らの保護領としてユダヤ人国家の建設を支援したので、アラブ=ユダヤ両民族の対立・紛糾は次第に複雑化していった。

 

アブドルアジーズは1926年にヒジャーズを併合したのちも、全イスラーム諸国会議を開いて汎イスラーム主義の推進を唱導する一方、一貫してアラブの団結を訴え続け、1936年に国交を再開したエジプトとともに、アラブ諸国にアラブ連盟の結成を呼びかけた結果、1945年3月にアラブ連盟が発足した。

 

9-聖地問題への対応

アブドルアジーズのナジドはひとつのウンマ(イスラーム共同体)であった。そのウンマがヒジャーズを併合して国家としての統一を果たすや、国際的場面で種々の役割を演じなければならなくなっていった。アブドルアジーズがまず最初に着手しなければならなかった国際問題は、聖地問題であった。アブドルアジーズはヒジャーズの人民に対して、人命と財産を保障すること、すべての問題はシャリーア(イスラーム法)を規範として解決されることを宣言した。さらに彼は統治することが自分の仕事であり、安全の確保や社会生活の平静、およびヒジャーズ住民に快適な生活を保障することが自分の義務であることを宣言した。これはイスラーム世界に対する宣言でもあり、ムスリムの懸念を和らげるものであった。

 

10-エジプトとの国交回復

サウディアラビア王国建国の1932年当時、領土の北側はシャリーフ家のトランスヨルダンとイラクと接し、南西にはイェメンがあって、いずれも強国であったがアウディアラビアの辺境は平穏であった。しかし、アラブ世界の結束実現を果たせなかったアブドルアジーズには、これらの強国に拮抗しうる他の国と盟を結んで勢力均衡を保つ必要があり、それも足元のアラブ世界から探す必要があった。1936年、エジプトでファールーク新国王が即位したのを機に、彼はマハマル事件(1926年)以来外交関係が途絶えていたエジプトとの国交を回復した。友好関係は順調に進み、のちの第二次世界大戦中にこの二国はアラブ連盟結成に中心的役割を果たしている。

 

第二次大戦後、エジプトを中心にアラブ民族主義運動が進展していった。エジプト国民は英国・エジプト同盟条約の破棄、スエズ運河駐留英国軍の完全撤退などを要求して激しい反英闘争に立ち上がった。その最中の1948年にパレスチナ戦争が勃発し、これに参戦したエジプト軍が屈辱的敗北を喫すると、政界に対する国民の不満と怒りが爆発した。1952年、国民の不満に乗じてナセル(ガマール・アブドッナーセル)、ナギー(ムハンマド・ナギーブ)らの率いる自由将校団がクーデターを起こしてファールーク国王を追放、共和制を樹立して軍が政権を握った。

 

これまで王政国同士のサウディアラビアとエジプトが築いてきた友好関係は、このいわゆるエジプト革命を機に次第に疎遠になっていった。エジプトの新しい指導者たちが自らの革命を他のアラブ諸国にも広めようとする熱意のあまり、すでに両国間に築かれていた多くの善意の懸け橋を焼き払ってしまうのを、アブドルアジーズは忍耐強く静かに見ていた。彼は言った。「時が教えてやるだろう、あの若い将校たちにな。サウディアラビアとエジプトの関係は個人的なつながりでも一時の気紛れでもないんだってことをな。お互いの利益、不可分の文化的絆、そういうものがあるからこそ、この二国間関係が成り立っているんだ。つまり、この二国間関係は国民と国民の関係なんだ。統治者と統治者の結び付きじゃないんだよ。」

 

11-イェメン対策で見せた現実主義

アブドルアジーズが機敏さ、寛大さ、勘の良さ、現実主義など、政治家としての資質を見せた代表的なケースは1934年のイェメンとの戦後処理であった。1934年5月21日、ターイフで締結されたサウディ=イェメン条約で、アブドルアジーズは占領した沿岸地帯のほとんどをイマーム・ヤヒヤーに返し、アブドルアジーズはナジュラーン、アシール高地、ジーザーン港を領有することが確認された。これまでのアブドルアジーズならば自らが占領した土地は自らが領有した。彼がいま王となったサウディアラビア王国は30年もの間そのようにして築き上げられたものだ。それが今回は占領した土地を未練もなく元の持ち主に返したのだ。人々はアブドルアジーズに、折角占領した土地を返すことはないでしょうと言った。彼は答えた。「イェメンをサウディに併合しても、治める人間をどこから連れて来るのか。イェメンはイェメンの統治者でなければ治められない。イェメンは私には益をもたらさない」

イェメン人の特異性、歴史、地理を熟知していたアブドルアジーズ王は、イェメンを自分の領内に包含したが最後、際限のないトラブルと損失の泥沼にはまりこむことは明明白白であると考えた。勝ち戦は必ずしも領土を併合したり人民を支配することに直結しないのだ。英国ですらアデンを保護領にしただけで、そこから奥地に入って来ようとしないではないか。やっと生まれたばかりの若い国サウディアラビアをイェメンの流砂の中で危険に晒すような軽挙妄動は慎まねばならぬ。それに、もしイェメンを領有した場合はこれまでサウディアラビアが行なってきた征服や占領や併合と違って、外国の侵入・支配と同様に見做されることは必至であろう…。領土拡張政策に終止符を打った彼は国内の整備・充実に取り組んだ。

 

1935年3月15日の早朝、マッカ巡礼に来ていたアブドルアジーズ王は皇太子サウードとともに何千という巡礼者にまじって、カアバの周囲を歩くタワーフと呼ばれる巡礼行事の一つをおこなっていた。巡礼者はすべてイハラームと称するわずか2枚の白布以外の衣服や装身具を着用してはならず、毛髪もさっぱりと刈り込まなければならない。当然、王も皇太子も巡礼衣姿で無防備であった。突然、巡礼者の列の中から4人の刺客が短刀を振りかざして王に襲いかかった。その瞬間、サウード皇太子が父王の前に立ちはだかり、父を凶刃から救ったが、自らは肩に重傷を負った。下手人たちは王の護衛兵によって取り押さえられ、3人はその場で射殺された。4人ともイェメン兵であった。この暗殺未遂事件に対する報復は行われず、サウディアラビア=イェメン関係にも変化は生じなかった。アブドルアジーズがこれを外交問題にしなかったからであった。

 

12-領海法制定に優れた国際法の見識

第二次世界大戦後、アブドルアジーズ王はその英知と洞察力を発揮してサウディアラビアを他の先進国に比肩しうる海洋法基盤をもつ国に成長させ、世界の海洋法の発展にも貢献した。王が初めてサウディアラビア海洋法の制定を世界に宣言したのは1949年5月であった。国際法の慣習に従ってサウディアラビアの領海を定め、その水域および接続水域の海床・海底資源に対する権益を主張し、紛争が起こった場合の平和的解決方法などを規定する勅令を発布したのである。

 

その内容は概ね次の通りであった。()領海は沿岸水域および内水から成り、沿岸水域は内水より6カイリとする。()領海、領空およびその土地はサウディアラビアの主権下にあり、沿岸水域における他国船舶の無害通航権については国際法を適用する。()沿岸水域は本土または島嶼の海岸の最低潮線から測定するか、本土海岸から12カイリ以内の島嶼ならばその外側地点を結ぶ基線から測定する。()内水または沿岸水域が他国のそれらと重複する場合は、公平の原則に従って当該国と協議のうえ境界線を決定する。()6カイリ以遠12カイリまでの水域を安全保障、航行などに関する海洋調査のための接続水域とする。

 

アブドルアジーズ王が先鞭をつけたお陰で他の湾岸諸国も次々と領海法を定め、陸上および沖合の地下資源が生む利益の配分を平等にしようとする機運が芽生えて行った。

 

第二次世界大戦でアラビア湾はその戦略的重要さにおいても石油の宝庫としても認識されるようになった。すでに高まっていたアラブ民族主義運動は植民地時代の終焉を告げていたが、列強は植民地の独立を潔く認めず居すわった。英国は中東で最強の支配勢力であったが、大戦中に米国の影響力は英国を凌駕するまでに急速に伸びていた。大戦中の石油需要の急増と掘削技術の進歩によって海底の石油やガスの開発が可能となり、1945年9月、米国は沖合の大陸棚資源は米国に属するとの「トルーマン宣言」をおこなった。以後、他の国々も大陸棚や海洋全般における資源の所有権・占有権を主張して領海法を発布したり大陸棚宣言をしたので、互いの領海が重複する部分や領海法上の規定が曖昧な部分が潜在的に紛争の原因となる新しい時代に入って行った。

 

オスマントルコ政庁は1914年にアラビア湾に6カイリの領海を定め、イラン政府も1934年にアラビア湾で6カイリ領海を宣言していたが、サウディアラビアにはまだ領海法がなく、慣習として沖合4カイリまでを領海としていた。第二次大戦後の新しい考え方に従って大陸棚や領海を設定しようとしても、陸地で囲まれ、島嶼が点在するアラビア湾では、領海の設定に問題が続出した。しかもアラビア湾は平均水深40メートルしかなく、100メートル前後の最も深い部分はイランの海岸線に沿って走っている。全体としてはほぼ盥のような形状の入り海であり、大陸棚はなく、また、水深に従って湾内に中線を設けることは政治的に困難となっていた。とりわけ大陸棚がないことでトルーマン宣言が適用できるかどうか疑問視されていた。

 

アラビア湾の法的環境が注目されるようになったのは1940年代の終り頃、いかなる沖合地域をアラムコの利権区域内と考えるかという疑問が起きたときであった。アラムコの利権協定では沖合島嶼および沿岸水域を利権区域に含めているが、トルーマン宣言の解釈を適用した場合、そのままで同宣言のいう沿岸水域以遠の海域にまで拡大できるのか、という問題であった。

 

アブドルアジーズ王がサウディアラビアのアラビア湾における権益を主張するに当たって、彼は当然、利権区域が重複することや、英国が被保護国の利益を主張するであろうことを予測していた。石油会社間の法律紛争に発展した場合は、さらに深刻な問題となることも認識していた。第二次大戦中、サウディアラビアは英国および米国の援助を得ていたが、こと主権に関わる海洋法の問題に関しては英国や米国の政策と対立しても王国の利益が何ものにも優先した。王は敢然と沖合18島の領有と沿岸水域以遠の資源についての利益を宣言した。

 

大戦直後、アラビア湾では島嶼の領有権と境界線をめぐってサウディアラビアと他の国々の間で多くの紛争が起こっており、休戦海岸諸国とサウディアラビア、マスカット・オマーンとサウディアラビアの紛争では宗主国たる英国が交渉権ありと主張してサウディアラビアとの交渉に携わっていた。果たせるかな、英国はアブドルアジーズが領有を主張する18島のうち5島はクウェイトのものであると異議を唱えた。アブドルアジーズ王は英国に交渉を申し入れたが、英国は言を左右にして交渉を先送りにした。イランもうち1島の領有権を主張し、米国は領海の測定方法に異議を唱えた。

 

もともと、この種の紛争は根が深く長年続いて来たものであった。中には1913年以来、英国とオスマントルコの間で解決を見ず、1934年以後は新主権国サウディアラビア王国と英国との間の交渉に引き継がれたが、やはり未解決のままの紛争も含まれていた。英国は交渉に応じるどころか、サウディアラビアが領有を示すため島々に建てた標識を破壊する措置に出たほか、軍事力を行使してサウディアラビアに圧力をかけた。

 

結局、アブドルアジーズ王が1949年の領海法公布の際に規定した紛争解決の条項に従って交渉が進められ、彼の死後1958年にバハレインとの沖合境界線協定が締結され、以後、1965年にカタルと、1968年にイランと沖合境界線協定を締結した。これらの協定の成立は、サウディアラビアが相互の協力と敬意を念頭に、公平の原則と国際法遵守の姿勢で臨んだことの成果であった。そしてこの姿勢の素地はアブドルアジーズ王の、国益の増進を図るとともに近隣諸国の権利と利益も尊重する姿勢に始まったということができる。協定はすべて公平でなければならないというのが彼の信念であった。その信念と独立自尊の精神のゆえに彼は尊敬された支配者であった。アブドルアジーズ王が領海法の制定で謳った思想は、のちの1958年の国連海洋法会議で採択された海洋法4条約のひとつ、領海条約に反映された。また、王の唱えた公平の原則も、国際司法裁判所の扱った大陸棚訴訟などで先決例として採用されている。

 

13-国民教育普及への熱意

今日のサウディアラビアにおける教育の普及はアブドルアジーズ王に負うところが大きい。王が遺した知的活動や教育に関する業績は枚挙に暇がないほどである。アブドルアジーズ王はその広範な人的絆やウラマーとの関係を教育の普及に活かした。王にして宗教主導者のひとりであったアブドルアジーズは、ナジド地方のほとんどの町に支配を確立し、彼の人民からなる知識階級の活動範囲を拡大していった。王は彼らの中から教育、布教、伝道、法制など、それぞれの法律的問題に係わる諮問委員を選び出し、毎週金曜日の午前中を会合日としたほか、軍事遠征時も彼らと行動を共にした。実際、王自身が彼らと提携せずに行動することはなかった。彼の燃えるような情熱、澄み切った信仰心、広い視野と威厳に満ちて人心を魅了する人柄、その誠実さと高い理想、目標を見る目の確かさ、それらの目標実現へのアプローチのすべてを理知的に具現する才覚……これらによって王はその壮大にして高邁なる理想を達成する手腕を発揮し、祖先から受け継いだ教育プログラムを最大限に活用する裁量を具現した。そのプログラムは1924年、布教活動を通じて始められた。

 

この年、王はマッカのウラマーと会議を開き、彼らに宗教教育と読み書きの普及に努力することを要請した。この会議はまた、王自身がかねてより意図していたマジュリス・アッシュ―ラー(諮問評議会)を設立する旨を彼らに下達するためでもあった。この評議会は、ウラマーや国内有力者の中から選ばれ、王と国民の間の仲介役を果たす委員から構成され、王にとっては目となり、国民にとっては苦情を聞いてくれる耳となり、訴状を調査して王に答申をするのが任務であった。この評議会による答申の結果、1926年、「国民教育局」と称する、教育全般を担当する部局を設立する勅令が発布され、マッカにアジージーヤ小学校等4小学校が開校された。

リヤードにある今日のマジュリス・アッシュ‐ラーの建物

 

王が教育担当部局を設置したことは、サウディアラビア王国における系統的教育の確立の布石であった。やがてこの部局はその権限において、国内のすべての学校やシャリーア(イスラーム法)の大学を管轄するようになる。国民教育局長は教育行政の最高責任者となり、法制に反しない限りいかなる通達をも発布し得る資格を有した。1926年8月30日、「国民教育要項」が公布され、()国民教育局は学問・知識・技能の普及ならびに学校・図書館の開設を管轄し、また、王国全体における真正イスラームの根源に関し正確かつ強い関心を払う学術研究機関に対する支援をおこなうこと、()初等教育は王国全域にて無料で行われるものとする、などが明文化された。

 

アブドルアジーズはヒジャーズ併合後の1927年に、国民教育局に所属する監督立法委員会として「教育委員会」を設立することを発表した。これはヒジャーズにおける教育を制度化するもので、()ヒジャーズにおける初等教育はいずれも無料の義務教育とする、()ヒジャーズにおける教育は、予備、初等、中等、高等の4段階とする、などが定められた。教育委員会は、国民教育局長を委員長とし、委員は政府高官4名、学識者4名の8名から成り、すべて勅令により任命された。同委員会の権限は、()教育局の予算を決定すること、()委員長が指名する教員を承認すること、()学校を監督すること、()クルアーン校(小学学齢前の児童を教える学校)の状況を調査しその報告書を提出すること、()政府管轄校使用の教科書を選定すること、などであった。

現在の学校授業風景

 

1932年9月23日、サウディアラビア王国の誕生によって、ヒジャーズとナジドとその属領との合併が布告された時、国民教育局の任務は単にヒジャーズにおける教育の監督にとどまらず、王国全域の教育に関わる事項全般をも監督することとなった。管轄業務の拡大により、国民教育局の規制も、()国民教育局長は国民教育局における最高責任者として、いかなる指示も出すことができる、()教育委員会は、教育局長に指名される教育局職員2名と、王の代理権者により指名される教育問題経験者6名の合計8名の評議員から成る、()教育委員会はカリキュラムの決定、学校の新設、留学生の派遣、すべての公立学校における卒業評定の監督、公立学校の監督等の権限を有する、などと改定された。

 

この体制は、1944年に教育省が設立されるまで存続した。

 

14-書物の普及と印刷技術の発展

アブドルアジーズは、教育普及のため各モスクにウラマーを配置する措置を講じ、学問・知識を広め、真の宗教であるイスラーム布教の土壌を拓き、イスラームの大規模伝道の基礎を構築するために彼らをナジドの同胞団の定住農業開拓村や諸都市に、さらにはサウード家の国家に統合されることとなる地域に派遣したのち、アラビア半島はいうに及ばず、周辺諸国やイスラーム世界内外の諸地方にも学問や教育を広めるべく、ある思い切った措置を取った。その成功した措置とは書物の印刷・出版と無料配布であった。

 

王は半島統一の戦いに専念してはいたが、決して自らの使命である知識の普及やサラフィー運動への支持を忘れることはなかった。彼はその使命をウラマーを通じて、あるいは本の出版、買い上げ、無料配布などを通じて実現していった。国の新聞である官報『ウンム・ル・クラー』を発行したのもアブドルアジーズであった。この国では印刷物というものはすべて国外からのものであった。国民に情報や知識を伝えるには、王が自分の広報機能を持つ必要があった。

1998911日付 官報『ウンム・ル・クラー』(No.3714)の一面

 

『ウンム・ル・クラー』によると、王が印刷し、ウラマーや学生に配布するために買い上げを命じた出版物は10万冊にも達したという。これはアラビア半島に前例のない画期的な事業であった。また、サウディアラビア王国諸地域に普及した教育興隆という偉大な業績もアブドルアジーズ王に帰せられると言っても過言ではない。ウラマーも王の学問に対する燃えるような情熱をよく認識し、王が学生に学問を奨励していることもよく心得ていて、王に主だった書物のタイトルを推薦したので、王はそれらを印刷したり買い上げたりして、埋もれていた良書を蘇生させ、人々に活用させることができた。

 

それを物語る一つのエピソードがある。シェイク・アブドッラー・ビン・アブドルアジーズ・アルアンガリーは、イマームのアハマド・ビン・ハンバルの法解釈に関して著名なクルアーン読誦者イブン・クダーマが著した書物『アルムガンニ』を完全な形で収集することができたので、自分の弟子たちにこの本を美しい字で書写させた。その弟子たちは学問を追い求めるだけでなく、書も良くする人たちで、例えばアブドッラー・アッダハシュ、ムハンマド・アルビーズ、スライマーン・ビン・ハムダーンなどのような宗教指導者であった。彼は出来上がった写しをシェイク・ムハンマド・ビン・アブドルムハセン・アルアンガリーに持たせてアブドルアジーズ王に献上した。王はこれを至高の慶びとして受領し、リヤードのウラマーによる字句の解釈・注釈を付して印刷するよう命じた。1922年、『アルムガンニ』12巻の印刷がエジプトのアルマナール印刷所で始められ、1928年に終わった。巻末に、この出版をアブドルアジーズの偉業であるとするシェイク・ムハンマド・ラシード・リダーの賛辞がある。その中で彼はアブドルアジーズ治下のハンバリー学派の様子を評価し、この大作の発行という偉業を王の功績として高く賛美している。曰く、「この王なかりせば、私たちも私たち以外の人たちもこの印刷をやらなかったであろう。諸都市ではハンバリー学派は少数であり、また、彼らが貧困であるが故に、さらにはこの本がハンバリー派教徒だけの法解釈ではなく、イスラームの法解釈そのものであることを知る者が少数であるが故に、アハマド・ビン・ハンバル師の解釈を支持する法解釈者の一人によるハンバリー学派の法解釈12巻を敢えて出版するビジネスマンはいないからである」と。

 

王は書物やメッセージを印刷して普及させる方法を積極的に取り入れたので、サウディアラビアにおける印刷産業、編集・出版業は次第に発展し、印刷の専門技術者に対する国としての需要が顕在化していった。研修生や印刷の専門家が派遣され、印刷機や宗教関係書の印刷紙の輸入税が免除された。官報『ウンム・ル・クラー』の印刷はこのような状況下で始められたのであった。

 

 

 

 

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」

日本サウディアラビア協会出版

 

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