Saudi Culture Japan

موقع سيرة المؤسس الملك عبدالعزيز بن عبدالرحمن آل سعود - طيب الله ثراه - باللغة اليابانية




国王の生涯


―近代サウディアラビア建国の祖―

アブドルアジーズ国王の生涯

 

アブドルアジーズの誕生からサウディアラビア王国の建設まで

 

 

1-アブドルアジーズの誕生と成長 / その背景

31才のアブドルアジーズ、東部州サージュで(1911年)

 

1880年12月2日朝、城壁を巡らしたリヤードの町のほぼ中心に位置する古い城の一室で、サウード家の当主アブドッラハマーン・ビン・ファイサルに男児が誕生した。男児の名はアブドルアジーズ。今日のサウディアラビア王国建国の祖、後にイブン・サウードと呼ばれた砂漠の覇者の生涯の始まりであった。

 

人は、幼児期に出会った境遇がその人の人格形成に、そして少年期に接した環境がその人の将来担うことになる役割に大きく影響を及ぼすといわれている。強力な指導者としての資質に恵まれ、底知れぬ器量と行動力をみせたアブドルアジーズ。揺るぎない信仰に支えられ、己の使命を確信したこの偉人を語るにあたっても、その生まれた時代のアラビア半島の状況と、一族をとりまく経済的・文化的な背景から語らないわけにはいかないだろう。

 

(1)アブドルアジーズ出現以前のアラビア半島

アラビア半島は多数の部族によって構成された部族社会の集まりであった。それぞれの有力部族がその枝分かれした支族や周辺の小部族を組み入れて、領主国家ともいえる領域が各地にできていた。時代の流れとともに多くの名門有力部族が姿を消し、その内からまた新しい部族が台頭しては消えていった。アブドルアジーズが生まれた19世紀のアラビア半島で勢力を保持していた主な有力部族は、半島の西側のハルブ族、北のシャンマル族、ルワーラ族、東にアジュマーン族、南のカハターン族、ムッラ族、中央の内陸部のムタイル族、オタイバ族、ダワーシル族などである。

そしてアラビア半島を地理的におおまかに分けて、西の紅海側をヒジャーズ地方、北のヨルダン側をシャンマル地方、東のクウェイトに続くアラビア湾岸側をハサー地方、中央の砂漠に囲まれた高原地帯の内陸部をナジド地方と呼んだ。南側はイェメン、ハドラマウト、オマーンであった。

 

1900-30年のアラビア半島

 

中でもマッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の二大聖地がある西のヒジャーズ地方は、古くから巡礼に来る人々や中継ぎ貿易に携わる人々の絶え間ない交流があり、文化的にも経済的にも半島の最先進地域であった。ここはイスラーム発祥の地であり、代々預言者ムハンマドゆかりの家柄の者がシャリーフ(マッカの大公)と呼ばれイスラームの守護者としてこのヒジャーズ地域の統治にあたってきたことから、この地域にはイスラーム世界の中核としての大きな権威と特別な地位が確立されていた。

 

このヒジャーズ地域も他のアラブ地域と同様に、すでにこの頃はオスマントルコ帝国の支配下におかれていた。イスラーム世界を統轄するものはオスマントルコであり、オスマントルコの皇帝がカリフ(後継者の意味で、預言者ムハンマド以後の代々のイスラーム共同体の統治者)の称号を保有した。しかしオスマントルコのアラビア半島の支配は名目的なものであった。トルコ人の支配は主に海岸に沿った狭い範囲に限られていたし、このヒジャーズ地方もジェッダの町にオスマントルコを代表する総督と駐屯部隊が配備されていたが、実質的な統治はシャリーフの手に委ねられていた。

 

アラビア半島の東側、クウェイト及びアラビア湾沿岸部のハサー地方も、領主たちがバグダードのオスマントルコ総督に対して忠誠を誓い、一応はその支配下におさまっていたが、地元の有力遊牧民部族はたびたび勝手に紛争をひき起こしており、沿岸を除いた広い砂漠地帯はオスマントルコ側の無関心から、遊牧部族の自由に任され、実際にはそれぞれ独立した部族の領域からなっているといってよかった。

 

北部のシャンマル高原地帯は、ハーイルの町を中核にシャンマル族が力を持つ領域であった。

 

さて、アブドルアジーズが生まれたリヤードの町がある半島中央部、内陸のナジド地方はというと、そのほとんどが不毛の砂漠で半島の最も貧困な地域であった。ナジド地方の中央には細長く渓谷が走っている。ワーディーと呼ばれるこの渓谷は降雨期には水が流れる川となるが、それは冬の間の一時的なもので、通常は砂漠に飲み込まれた涸れた川ある。そしてその地下水のあるごく限られた場所に村落が生まれ、ナツメヤシなどの農耕が行われていた。耕作はごくわずかの土地に限られていたので、ナジドの住民のほとんどがラクダや山羊を飼育しながら移動する遊牧民あった。これらの遊牧民は家畜を売りに村や町にやって来て、必要なものを手に入れて生活していたが、必要に迫られたときは村落や隊商を襲って略奪もした。戦利品の獲得は生活のための手段のひとつでもあったから、チャンスがあれば争奪戦はしばしば起こる、決して特異なことではなかった。

 

このため、村や町は税を払ったり貢物を献上したりして、有力な遊牧民部族の保護下にはいった。力のない部族もまた生き残りのためにはより強い部族の保護下に入らなければならなかった。支払いは、より弱い部族からより強い部族の保護者になされるのが砂漠の掟であった。もっとも、小さな部族でも優れた知力と行動力に富んだ指導者にめぐまれ、何度か争奪戦に成功すれば大きく勢力を伸ばすことができたし、有力部族が内紛や権力争いで力を失ってしまうこともあった。こうした興亡の中から大きな戦力を持った部族の族長を首長とした領主国家「侯国」が形成されていった。ナジド地方の中央部ワーディー・ハニーファに沿って、デルイーヤを中心にデルイーヤ侯国、リヤード周辺にリヤード侯国、その北にウヤイナ侯国、ハルジ地方にディラム侯国、カシーム地方にオナイザ侯国とブライダ侯国、その他があった。各地の侯国は戦闘をくりかえしてさらに拡大を目指し、互いに争い、ナジドは群雄割拠の状況であった。しかも、預言者ムハンマドがイスラームの布教をはじめてから1000年以上が経過して、アラビア半島にはイスラーム以前の聖者崇拝や偶像信仰の風潮がみられるようになり、いつのまにか非イスラーム的な風習がはびこっていた。

 

(2)サラフィー運動とサウード家の台頭

デルイーヤの遺跡

 

時代をほんの少しさかのぼった18世紀半ば、ナジド地方には大きな新しい動きが起こっていた。アラビア半島の人びとの間に真のイスラーム信仰を回復しようと宗教改革を叫ぶひとりの人物が現れた。イスラームの基本教義に戻れ、あらゆる異説を打破せよ、アラビア半島を再び一つのウンマ(イスラーム共同体)にまとめよ、と彼は声をあげた。その声に耳を傾け、その機会をとらえてアラビア半島の統一へ足場を固めていったのがデルイーヤの領主ムハンマド・ビン・サウード、現在のサウディアラビア王家の先祖にあたる人であった(このデルイーヤ侯国こそがサウディアラビア王国の前身といえる。後述のごとくアブドルアジーズが現在のサウディアラビアを建国する以前、18世紀と19世紀にサウード家一族によって、2度にわたってアラビア半島は一時統一された)。内紛に明け暮れていた一族をまとめてムハンマド・ビン・サウードがデルイーヤの領主の座に就いたとき、デルイーヤは人口が1,000人に満たない村にすぎなかったという。しかし、ナジドのこの小さな村はまもなくアラビア半島のほぼ全域を支配する大侯国へと変貌する。そしてその発端となったのが、サラフィー運動を起こした上述の宗教改革家の出現であった。

 

彼の名はムハンマド・ビン・アブドルワッハーブ、ウヤイナ侯国で代々イスラーム法学者を輩出する学者の家系に、1703年頃生まれた。少年の頃からクルアーン(コーラン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)はもとより、多くの聖典注解釈書を読み込んだ。成人してマッカ巡礼を済ませた後に、マディーナに立ち寄り、そこで神学を学び、さらにイラクのバスラに移って著名な法学者のもとで学んだ。また、各地を訪ねて多くの学者と交わり、知識を深めた。

 

彼はシリア生まれのイスラーム学者イブン・タイミーヤ(1263~1328年)の学説に深く共鳴し、影響を受け、それを基盤にして、イスラームの基本教義であるアッラーの唯一絶対性を説くサラフィー運動を展開していった。そして預言者の時代を忘れかけている社会に警告した。あらゆる贅沢快楽を捨てよう、聖なるクルアーンと使徒ムハンマドのハディースを忠実に守り、唯一なるアッラーの意志に帰依する本来のイスラームの姿に帰ろうと説いた。このサラフィー運動とは、西欧ではワッハーブ運動あるいはワッハーブ主義と呼ばれている宗教運動のことである。

 

ナジド地方に戻ったムハンマド・ビン・アブドルワッハーブはウヤイナで活動を開始した。感銘を受けた人びとは多かったが、極めて厳格に基本教義の立場に立つ教えであったことから、彼の布教活動を快く思わない人々や敵意を抱いた人々も多く、身に危険がおよぶこともたびたびあった。ハサー地方の支配層はウヤイナの領主オスマーンに彼の処罰を求めてきた。

 

1745年、ムハンマド・ビン・アブドルワッハーブはウヤイナを逃れ、デルイーヤの村に保護を求めた。デルイーヤの領主ムハンマド・ビン・サウードは快く迎え入れ、彼に全面的な支援を約束した。そしてこのときからムハンマド・ビン・アブドルワッハーブとムハンマド・ビン・サウードの二人は、宗教的理想のもとにアラビア半島の統一をめざすという同じ夢で固く結ばれた。この二人のムハンマドの出会いが、その後のアラビア半島の歴史に大きな転機をもたらすことになる。

 

イブン・アブドルワッハーブ(アブドルワッハーブの息子の意味で本著ではムハンマド・ビン・アブドルワッハーブを指す)の名声は日々に高まり、多くの人々が集まり来るようになった。デルイーヤの住民にそれらの人々たちが加わり、また新しく参集した同調者たちが加わり、デルイーヤの村は大きく膨れ上がった。預言者の時代のムハージルとアンサールに倣って、信仰にむすばれた同胞兄弟としての共同生活が行われたが、デルイーヤの経済的事情は収入を得る道を必要としていた(デルイーヤの当時の状態は聖遷時のマディーナに酷似していた。622年に預言者ムハンマドはマッカからマディーナに聖遷し本格的に布教活動を始めたが、その前後にマッカから移住してきたムスリムをムハージル、彼らを受け入れたマディーナ社会の援助者をアンサールという。アンサールたちは、信仰のため家族を捨て、部族を捨て、力も資金も欠いた、移民のムハージルたちをそれぞれの兄弟として迎えいれて共同生活をおこなった。デルイーヤのムハンマドも同様の方策をとった)。

 

イブン・アブドルワッハーブは近隣の領主や族長に徹底した唯一神信仰への回帰をよびかけた。同調した者もいたが、邪教だとして嘲笑したり非難したりする者も少なくなかった。イブン・アブドルワッハーブは宗教家であり有能な軍略家でもあった。ムハンマド・ビン・サウードは武人であり優れた指導者であった。2人はサラフィー運動に敵対する態度を示すデルイーヤ周辺の部族に対して聖戦を実行する決心をした。

 

サラフィー運動を旗印に、軍事行動が開始された。戦利品が分配され、人びとは活気だった。以後、信仰のためには死ぬまで戦おうと、燃え上がる熱情に向かうところ敵なしの大躍進が続いた。デルイーヤ侯国は領士も兵力も急速に拡大し、それと共にサラフィー運動もアラビア半島に広く浸透していった。

 

(3)第一次サウード侯国

その後もイブン・アブドルワッハーブの提唱するサラフィー運動は、ムハンマド・ビン・サウードの勢力拡大運動と車の両輪のごとき不可分の関係を保ちながら、一歩一歩アラビア半島の宗教的・政治的統一を進めていった。ムハンマド・ビン・サウードは1765年に没するが、その息子アブドルアジーズ・ビン・ムハンマドは着々と統一運動を進め、1773年にはリヤードを、ついでナジド全域を支配下に置き、1790年にはアラビア湾岸のハサー地方を征服した。

 

1792年、イブン・アブドルワッハーブも90歳で他界するが、その意志はサウード家によって受け継がれ、サラフィー運動の支持層は増大していった。1801年にはイラクのカルバラ-やヒジャーズのマッカで聖者崇拝や英雄崇拝の対象物たる廟や墓を破壊するほど強力な勢力に成長した。

 

この頃にはデルイーヤのサウード家の支配領域は広大なアラビア半島のほとんど全域に達しており、一極支配体制の不備を補うためアブドルアジーズはこれを20の州に分割、自分の忠臣から各州の知事を任命して統治する一方、各州にカーディー(裁判官)を任命し、宗教教育と民衆教育にあたらせた。

 

1803年、アブドルアジーズはデルイーヤのモスクで礼拝中に刺客に襲われて83歳の生涯を閉じたが、後を継いだ息子サウードのもと、サウード侯国はさらに領土を拡大し、オマーンやイェメンの大部分を併合し、マッカ、マディーナも掌中におさめた。さらにシリアやイラク方面にも積極的に進撃を開始していた。しかしながら、この侯国は長く続かなかった。疾風のごとく走りぬけ、消えていくことになる。

 

オスマントルコが危険に気づいたのだ。このサラフィー運動の勢力をオスマントルコ帝国は容赦できなかった。金曜日のモスクの礼拝においてもオスマントルコ皇帝の名が称えられることがなくなっていた。ヒジャーズ地方が占領され、マッカとマディーナの支配が奪われ、オスマントルコ帝国の威信は著しく傷ついてしまった。

 

1811年、奪われた領地を回復するためオスマントルコ帝国は臣下のエジプトの大守ムハンマド・アリーを起用し、アラビア半島のこの破竹の新勢力を徹底的に鎮圧するように命じた。ムハンマド・アリーのエジプト軍は最新の軍事技術に大砲や近代的兵器を装備し、トルコ兵やアルバニア兵の増援をうけて、サラフィー勢力の一掃に乗り出した。トルコ=エジプト軍の優れた兵器・弾薬の威力に、サラフィー勢力のサウード軍は数々の戦闘で痛手を受けた。

 

1814年、サウード侯国の大首長でありサラフィー運動の推進・守護者でもあるサウードが死んだ。敗退が始まった。サウード軍から離反したり、寝返る部族も多かった。ヒジャーズが奪回され、カシームが陥ち、ナジドの各地もつぎつぎと征服された。

 

1818年、サウード家抹殺の敵意に燃える父ムハンマド・アリーの意を体したイブラーヒームが率いる強力なエジプト軍がデルイーヤを包囲、9か月に及ぶ激戦ののち、ついにデルイーヤも陥落した。このときの首長アブドッラーはイスタンブールに送られ首を斬られた。トルコ=エジプト軍はサラフィー勢力の根絶のためサウード家一族とイブン・アブドルワッハーブの子孫を捕らえてエジプトに送り、デルイーヤの町を徹底的に破壊した。ムワッヒドゥーン(サラフィー運動に共鳴した人たち。)の部落も容赦ない破壊と殺戮を受けた。トルコ=エジプト軍はハサー地方も制圧し、アラビア湾岸の支配権を確立すると、アラビア半島をずたずたにして撤退していった。

 

デルイーヤは廃墟となり、ナジドの村落は荒廃した。アラビア半島統一の事実は、風に吹かれた砂のように砂漠に消えてしまった。

 

サウード家は壊滅的な打撃を受けた。だが、イブラーヒームはこのとき近在に難をのがれていたサウード家のひとり、トルキー・ビン・アブドッラーという人物の存在を失念していた。この人物もまた、サウード家の再興に立ち上がった不屈の英雄であった。

 

(4)第二次サウード侯国

1824年、反撃の機熟せりと見るや、トルキーはデルイーヤを奪回、時を移さずリヤードを攻めてこれを占領、廃墟となったデルイーヤに代わってリヤードに移り住み、そこを拠点にサウード侯国再興の準備にのりだした。イブン・アブドルワッハーブの子孫のひとりも帰還して、サラフィー運動への復帰を呼びかけ始めた。デルイーヤが陥落して10年たらずで新首都リヤードに再びサウード侯国が誕生したのである。混乱の中でナジド地方には、まだサウード家に対抗できる勢力がなかったことと、秩序を求めた人々が首長を継承したサウード家のトルキーに期待するところが多かったからであろう。

 

トルキーもサラフィー運動に依拠した治世に徹し、各地における宗教教育の普及に意を用いた。ハサー地方を取り戻したとき、彼は住民にイスラームの教えに従うこと、一日5回の礼拝を励行すること、ザカート(喜捨)を支払うことなどを命じた。また、国民の一人一人が自分の行動はもとより、所属する共同体に対しても、はっきりとした責任意識をもつよう啓蒙したり、学問を奨励したりして、長年の部族間抗争で荒んだ人心を落ち着かせることにも努めた。アラブ史家として著名なイブン・ビシュル、イブン・ガナム、イブン・イーサーなどが相次いでサラフィー運動思想史つまり唯一神崇拝思想史の書を著し、その後の宗教文学への関心の高まりの端緒をつくったのはこの時代であった。

 

1834年、トルキーが暗殺され、息子のファイサルが後を継いだが、再びナジドに侵攻したエジプト軍に捕らえられエジプトに幽閉されてしまう。1843年、ファイサルはエジプトを脱出、ナジドに戻った。1865年に死去するまでファイサルは首長として、遊牧民の定着と農業従事の促進、アラビア馬、ナツメヤシ、真珠などの生産・輸出の拡大、宗教教育の普及徹底など、内政の整備に腐心した。

 

第一次サウード侯国(デルイーヤ侯国)には及ばないものの、ファイサル・ビン・トルキーの時代に着実にサウード侯国は再興し、拡大していった。この首長ファイサルが本書の主人公アブドルアジーズの祖父である。

 

(5)第二次サウード侯国の衰退とアブドルアジーズの成長

ファイサルの死後、まもなくして首長の座を巡って息子アブドッラーとサウードの間で兄弟同士の権力争いが始まった。ファイサルの4番目の息子のアブドッラハマーン(アブドルアジーズの父)はこのとき少年だったこともあって、この争いには参加していない。同族争いは、支持する住民や部族の間にも争いを引き起こし、分裂、不満、復讐のたねをまいてしまう。すきに乗じてオスマントルコがハサー地方の支配権を奪った(1871年)。

 

サウード家の一族が争いをくりかえし、また度重なる闘争で力を失っていく一方で、北のシャンマル地方ではムハンマド・アッラシードを指導者に迎えて、ラシード家が台頭し始めていた。本拠地ハーイルを中心にその支配権は大きくナジドにまで広がってきた。ラシード家はオスマントルコ帝国と同盟を結び、その援助を受けていた。ナジド地方の多くの村や町や部族が内紛のサウード家を離れ、ラシード家に税を払ってその保護をもとめるようになり、その勢力はさらに拡大していった。

 

1890年までにはサウード家一族の有力者はことごとく殺されたり、リヤードを離れたりし、領土も散逸して、リヤードに健在していたのはアブドルアジーズの父アブドッラハマーン・ビン・ファイサルのみであった。アブドッラハマーンはサウード家の首長を継承したものの、その支配地はリヤードとその周辺のみ、それも名目上だけのことで、身分もラシード家に従属する立場にあった。リヤードにはラシード家の派遣した代官とその守備隊が常時駐屯して、町はその監視下におかれていた。

 

アブドルアジーズがリヤードに生まれたとき、かつて2度にわたってアラビア半島統一を果たした勇者たちの家系である名門サウード家は、もはや一族の存続さえ危ぶまれる状況にあった。

 

サウード家の男児は、ムワッヒドゥーンのウラマー(イスラーム指導者・学者)のもとでクルアーンやハディースを中心に読み・書き・暗唱の宗教教育を受ける。幼少のアブドルアジーズもサラフィー思想の父に厳格な信仰にもとづいて教育され、その後リヤード郊外のハルジに住む法学者のもとで読み・書き・クルアーンの暗唱の教えを受けた。アブドルアジーズは信心深い少年に育ち、一日5回の礼拝は欠かさず、断食を守り、宗教上の義務を進んで行った。夜明け前に起床し、クルアーンを唱えて礼拝することが日課となっていた。背は高く、痩せてはいたが筋骨はしっかりと逞しい少年だった。

 

サウード家のまわりには内乱やラシード家との対立、略奪隊の横行など、内部外部からの危険が渦巻いていた。暗殺や復讐が身近かで起こっていた。父は早くから息子に刀や短剣あるいは銃の軍事訓練をほどこした。アブドルアジーズ少年は軍事面でめきめきと頭角をあらわした。はだか馬にとび乗り、長刀を振り上げ、騎士のごとくに馬を走らせ銃を撃った。気性は激しやすく、行動は敏捷で大胆だった。敗北にうろたえることなく、勝利したときには寛大さをもっていた。遊び仲間の中でも、いつもイニシアティブをとったのは彼だった。

 

父は一族の歴史を息子に語って聞かせた。一族の血が沸きたつような夢を語った。少年は祖父ファイサルの活躍の話を聞くのが好きだった。少年の胸のうちに、いつの日か一族の夢を成し遂げる自信と自覚が育っていた。

 

父アブドッラハマーンも剛健な心をもっていた。城内をラシード家の代官と守備隊が支配していることに、じっと我慢していることができなかった。機をとらえて守備隊を追い払う策を練っていた。そして、ある日アブドッラハマーンは代官と衝突を起こして、彼をリヤードから追放することに成功し、ラシード侯国に対して反旗を翻した。カシーム地方がこれに続いた。このときはカシーム地方のオナイザ、ブライダの町の住民、それにオタイバ族、アジュマーン族、ムタイル族が加わってアブドッラハマーンを支持する同盟軍が結成された。これに対してラシード側にはシャンマル族をはじめハルブ族、ムンタフィク族、ザフィール族の各部族が集結して対峙した。

 

数週間の襲撃戦を経て、この戦闘はラシード側の勝利に終わった。カシーム地方もラシード侯国の支配を受け入れ、以後ラシード侯国は名実ともにナジド最強の統治者となった。

 

サウード家一族抹殺の命をうけてラシード侯国の一軍が北方からやってきた。アブドッラハマーンは家族を伴って、とり急ぎリヤードを脱出せざるを得なかった。ラシード軍の追跡をのがれて逃亡の生活が始まった。このときアブドルアジーズ少年は10才であった(1891年)。

 

一家はダハナ砂漠に入りハサー地方のアジュマーン族の領域に辿り着いたものの、そこももはや安住できる場所ではなかった。他の同盟の部族のもとにも安全の場はなかった。家族の婦女子をバハレイン首長イーサーのもとに送って保護を頼むと、アブドッラハマーンは息子アブドルアジーズを連れて南のムッラ族の領域のルブウルハーリー砂漠にはいった。ここは過酷な自然と不毛の荒れ地がインド洋に至るまで広がるアラビア半島の大無人地帯である。父子はおよそ2年の間この砂漠で過ごすことになる。敵もここまでは追いかけて来ない。

 

文明から切り離されたこの地で生き抜くために、略奪を常習とするムッラ族とともに何度も奇襲に参加した。少年は飢え死にをまぬがれるだけの僅かな食糧で生きることを覚えた。飢えにも渇きにも耐える力をつけた。砂漠の遊牧部族社会の強さも弱点も知った。極度に貧しいこの土地で、掟ももたず何らの宗教ももたないベドウィンたちのなかで、困難で危険な生活を送ったことはアブドルアジーズ少年に計り知れない多くの試練を学ばせた。

 

父子は孤独のなかでひたすら祈った。もはや砂漠の野人の暮らしに堪えがたく、疲労しきっていたアブドッラハマーンのもとに、クウェイト首長ムハンマド・サバーハからサウード家の一族を受け入れたいと申し出があったのは1892年の冬であった。父子はひとまず安住の地を得た。

 

2-クウェイトでの生活

父子はクウェイトに到着した。バハレインから家族も呼び戻した。一家にはクウェイト首長から住居と月々の手当てが支給された。実のところはクウェイト首長には、オスマントルコ政府からアブドッラハマーン一家を保護するための交付金が約束されていたのだった。

 

当時のクウェイトはオスマントルコ帝国の主権領域下にあった。クウェイトの首長がアブドッラハマーン一家の保護を申し出たその裏には、オスマントルコの思惑があったのだ。オスマントルコ政府はサウード侯国を崩壊させた後もサウード家一族の動きに注視していた。何といっても、近年アラビア半島の統一を現実のものとした大サウードの子孫である。このまま放置しておくよりも、管理下のクウェイトの地に保護しておいた方がよいだろうと考えたのだ。それはまた急速にナジド地方で勢力をもち始めたラシード家一族の野心を牽制するためでもあった。オスマントルコにとってもクウェイトにとっても、日増しに強大となるラシード侯国は脅威に変わるかもしれなかった。オスマントルコ政府はかつて砂漠に亡命中のアブドッラハマーンに使者を送って、オスマントルコの協力者となるリヤード代官の職をもちかけたが断られた経緯があって、そのときの体験からアラブのプライドを重んじて同じアラブのクウェイト首長にこの役割を担わせたのだった。

 

クウェイトは活気にみちていた。日干しレンガの家並みが青い海辺近くまでせまっており、その背後には果てしなく砂漠が続いている。すでに列強の多くがこの町に活動の拠点を置いていた。ここはアラビア湾への出口にあたり、インドと東洋への通路の入口である。クウェイトは中東の要の一つになっていた。クウェイトに集まり来る人種も、インド人、トルコ人、ペルシャ人、東洋人、ヨーロッパ人と多岐にわたった。商人、旅行者、船乗り、舟大工、人足や真珠取りの男たち、姿も立場も様々な人びとが働いていた。これまで少年が知っていたリヤードの気難しいムワッヒドゥーンや野蛮なムッラの部族民とは全く異なる人びとだった。雑踏の市場を歩き、波止場のカフェに腰を下ろして、少年は行き交う様々な人びとを眺める…。この港町で見たり聴いたりする何もかもが、砂漠を抜け出たばかりの少年にとっては珍しく、魅力的で大いに刺激をうけたであろうことは想像にかたくない。

 

少年はいろいろな話を耳にした。遠く世界をまわる船乗りたちの冒険ばなし、商人たちの儲けばなし、噂ばなしも興味深く聞いた。ナジドから来た隊商からは故郷リヤードの情報も得た。無防備になったリヤードの町はベドウィンの襲撃に悩まされ、人々はラシード家の苛政に苦しみ、サウード一族の帰還を待っていると…。何ということだ。もうじっとして待つことができなかった。若いアブドルアジーズは、怒りにふるえ、ひとり立ち上がって決起を呼びかけた。しかしながら、このときは彼に呼応して馳せ参じる者は誰もいなかった。

 

少年は精悍な青年に成長した。1895年、15才になったアブドルアジーズに花嫁がやってきた。花嫁ジャウハラはイブン・アブドルワッハーブの子孫であった。サウード家は大家族だったので、クウェイト首長からあてがわれた3室の小さな家での暮らしは決して満足のいくものではなかった。生活も苦しくなっていた。その頃オスマントルコ帝国は財政が圧迫されており、クウェイト首長への交付金をストップしていたため、首長はアブドッラハマーン一家への生活の手当てを打ち切った。貯えも尽きて、一家は経済的にも自らの収入の道を探さなければならない状況に迫られていた。

ところが、この年に突然クウェイトの事情が一変する事件が発生した。クウェイト首長ムハンマドがボンベイから戻った弟のムバーラクに暗殺され、政権がムバーラクの手に移るという事態が起きたのである。

 

新首長ムバーラクは、サウード家の若いアブドルアジーズがすっかり気にいった。彼の卓越した才能、優れた素質を見抜き、大いに興味を感じていた。そんな個人的な感情から、ムバーラクはサウード家の一族を積極的に保護し、生活の援助をした。リヤードを出てから学校とは縁のない生活を送ったアブドルアジーズだったが、幼い頃から大変な困難をくぐり抜け試練に耐えた体験を経て、彼は激しい情熱を秘めた青年、思慮深く分別のある青年に成長していた。ムバーラクはアブドルアジーズを宮殿に呼び、彼に様々な知識や学問を仕込んだ。外国の使節や代表を引見するとき、官吏と会議をおこなうとき、銀行家や商人と取引するとき、ムバーラクは若いアブドルアジーズをいつも自分の隣りに同席させた。

 

誰の目からみてもムバーラクは大物だった。幅広い交際と巧みな外交力をもった政治家であった。そして抜け目がなかった。たった一夜にしてクウェイトの政権を手に入れた行動力の男でもあった。

 

このクウェイトの生活こそがアブドルアジーズにとって実践的な政治と外交を学んだ学校だった。ムバーラクの政策や外交の駆け引きを学びながら、アブドルアジーズは我が身に課せられた仕事、今後向かい合うであろう仕事を自覚していった。

 

17才のとき、アブドルアジーズはこんな夢をみた…夜更けにひとりで馬を走らせていると、前方に年老いた男が馬に乗っているのが見えた。ラシード家の首長ムハンマドではないか!高く揚げたその手にはランプが輝いている。アブドルアジーズが近づいていくと、彼を見てすぐに敵と察したムハンマドは馬を蹴って急ぎ逃げようとした。そこでアブドルアジーズはムハンマドに飛び掛り外套の端をつかんでランプをとりあげ、その灯を吹き消した…。

 

夢から覚めたとき、アブドルアジーズは自分がラシード家からリヤードの支配権を奪回するよう使命を受けたのだと確信した。

 

1897年、このムハンマドが病気で死んだ。息子がなかったので、甥のイブン・ムトイブが後継者となったが、長い年月ラシード家のもとに有力部族長を束ねてきたこの英主の死は、ナジド地方の勢力の均衡に動揺を呼び起こす引きがねとなった。

 

クウェイトのムバーラクには野望があった。彼の保護下で亡命生活を送るサウード家の一族とともに、亡きムハンマドになりかわって半島を支配する野望であった。彼には自信があった。打つべき手筈もできていた。俊敏多才で先見の明に富んだムバーラクは国際情勢に聡く、ひそかに英国の保護を取りつけたのである。

 

クウェイトの前首長ムハンマドはオスマントルコ帝国に忠誠を誓った統治者だったが、ムバーラクは違った。ボンベイに滞在のころから英国政府のインド局の高官と連絡をとっていた。この頃にはインドからアラビア湾の全域にわたって、英国は進出の足場を築いていた。オマーン、カタルも外交関係を結んで英国の保護国となった。エジプトもスーダンも、その占領下にはいった。一方でトルコと組んでドイツがアラビア湾に直接の出口を求めて鉄道の敷設計画を進めており、クウェイトをめぐって列強の関心が日々に高まっていた。ムバーラクのクウェイトはトルコから離反して英国に依存する姿勢をみせ、1899年にはムバーラクと英国との間に領土不割譲条約が締結された。英国はクウェイトを外国の侵略から防衛すること、クウェイトは英国の同意なしで領土の一部を割譲したり貸したりしないことを約束したものであった。すなわち英国の保護国となったのである。

 

クウェイトを自国の管轄下にあるとするオスマントルコ帝国が黙っているわけはなかった。前首長のムハンマドはオスマントルコの臣下であり、代表者であった。ムバーラクはその代表を暗殺して地位を奪ったのだ。オスマントルコはムバーラクを認めなかった。同盟を組むラシード家への支援を強め、ラシード家にクウェイト領土を与える約束をして、ムバーラク討伐に向かわせた。

 

オスマントルコ帝国の後押しを受けてラシード家のイブン・ムトイブがクウェイト侵攻に動き出したのを知ると、ムバーラクはサウード家の一族とともに、これを迎え撃つ軍を集めた。クウェイトには軍隊がなかった。しかしムワッヒドゥーンの主導者であるアブドッラハマーンにはナジド各地の部族を動かす力があった。彼は砂漠の各地に従軍を呼びかける使者を送った。呼びかけに応えて、ムンタフィク、アジュマーン、ムタイル、その他の部族からも戦士が集まった。

 

ムバーラクは主力軍をアブドッラハマーンに、独立した小部隊をアブドルアジーズに預けた。アブドルアジーズにとって、いよいよ初めての実戦である。南方からリヤードに入り、ナジドの部族を決起させて、敵の背後から援軍にまわろうと決めた。アブドルアジーズは各部族を回り、必死に参加を呼びかけた。今回はその情熱に打たれて多くの部族が立ち上がった。リヤードの南に陣をはったときにはアブドルアジーズはかなりの大軍を率いていた。しかしながら、クウェイト首長ムバーラクと父アブドッラハマーンが統率する主力軍は、同盟軍の思わぬ裏切りに遭い、壊滅状態でクウェイトに敗走していた。その知らせにアブドルアジーズのもとに結集していた部族も、その後のラシード家の報復を恐れて多くが陣から逃げ去ってしまった。急ぎクウェイトに戻ってみると、ムバーラクにはもはや兵も武器も残っていなかった。クウェイトの陥落はもう目前で、アブドルアジーズはリヤード奪回の夢が破れたことを知った。

 

が、そのとき、英国の軍艦がクウェイト沖に現れた。英国はムバーラクとの条約に基づき、ムバーラク支援を公言して、ラシード軍にクウェイトからの撤退を促した。ラシード家のうしろだてオスマントルコ政府もここで英国と事を構えるわけにいかず、ラシード軍は撤退を余儀なくされたのである。列強がこの地域に影響力をのばそうとしている折、クウェイトは英国にとっても無関心ではいられない中東の要地である。オスマントルコの配下になるラシード家のクウェイト支配は英国政府には受け入れられないはずである。英国が必ず支援に乗り出すであろうことをムバーラクは読んでいたのだ。思いもよらないこのような事態の変転に、アブドルアジーズは外交の魔力、超大国の威力、列強の欲望とアラビア半島の立場をまざまざと見せつけられた思いであった。

 

アブドルアジーズはラシード家首長のムハンマドに勝利した夢を忘れなかった。ラシード家が報復としてリヤード周辺の村々の住民を殺害したとの知らせに、怒りを押さえることができなかった。ムバーラクは再び軍を集めようとはしなかったし、父アブドッラハマーンはすでにナジドの支配権の奪回を断念していたが、若いアブドルアジーズはめげなかった。夢の実現に向かって大きく踏み出そうとしていた。このままでは何もできない。砂漠に出よう。砂漠には可能性がある…。彼には数人の腹心の友がいた。親戚のビン・ジルウィー(アブドルアジーズの従兄弟)や、イブン・マスウード、弟のムハンマドもその仲間だった。それにベドウィンの若者や荒くれ者たちが加わって、総勢40人ほどの仲間が集まった。

 

1901年秋、21才のとき、彼はムバーラクにリヤード攻略の出兵許可を求めた。僅かな武器と老いぼれラクダを貰い受けただけの40人の部隊は、戦旗も、激励のドラムの音もなく、こっそりとクウェイトを発った。まっすぐリヤードには向かわなかった。彼らは通常のキャラバンルートを外して、裏道を進んだ。そして一連の略奪を繰り返しながら戦利品の収穫を得ては、味方となった者に報酬を与えて仲間を募りつつ、前進した。ムッラ族から迅速な略奪の秘訣を習いおぼえたアブドルアジーズの勇猛さ、気前のよさを伝え聞いてベドウィンたちが集まり来るようになった。略奪が不成功に終わったときにはベドウィンたちはさっと去っていった。アブドルアジーズの部隊は、膨らんだり、減少したりしながら前進していった。リヤードの近郊に到着したとき、部隊は結局40人に戻っていた。彼らはこの後、最後までアブドルアジーズを助けて行動をともにした仲間となる。アブドルアジーズはとるべき策を慎重にたてた。この僅かな兵力で決定的な成果をおさめなければならない。不意討ちをかける機会を待たなければならなかった。部隊は姿を見られないように、警戒して過ごさねばならなかった。足跡を消し、人目を忍んで籠った。じっと機会を待った。

 

ラマダーンの月が明けたとき、アブドルアジーズはいよいよ襲撃の時が来たことを仲間に告げた。1902年1月12日、アブドルアジーズと40人の仲間はリヤード郊外の水場に集結した。

 

城壁がリヤードの町をぐるりととり囲んでいる。アブドルアジーズは部隊を二つに分け、不測の事態に備えて半数を町の郊外に待機させ、半数の仲間を伴って城壁に向かった。城壁の外にその半数を待機させると、アブドルアジーズは残りの仲間とともにナツメヤシの幹を伝いながら夜陰にまぎれて城壁を乗り越えて町の中に潜り込んだ。冬の夜は冷え込み、人びとは家に閉じ籠り、町は寝静まっていた。十分に用心しながら、昔サウード家に仕えていた使用人の家に向かった。サウード家のかつての使用人は驚きと喜びでアブドルアジーズを迎え入れると、城壁内の詳しい情報を提供した。ラシード軍はマスマクの城塞を占拠しており兵隊はいつもは城塞の中で休み、夜明けに代官は城塞を出て護衛を連れて私邸に向かう。アブドルアジーズたちは綿密に手筈をとり決めた。

リヤードの町をとり囲んでいた城壁の一部(1937年)

 

1月15日、夜明けとともに奴隷が馬の用意を始めた。城内にざわめきが聞こえ、城塞の正門がいっぱいに開かれた。まもなく城塞から代官アジュラーンが姿を見せ、ゆっくりと歩いて自分の馬に近寄っていった。その時だった。アブドルアジーズとその仲間は叫び声を上げながら全速力でアジュラーンに襲いかかっていった。4人の仲間が時を移さず茫然とする城内の衛兵に銃を発砲する。急ぎ城塞に逃げ込もうとするアジュラーンを掴み、引き倒して格闘になる。死闘がくりひろげられる中、アブドルアジーズは引き金を引いた。弾丸はアジュラーンの右腕をつらぬいた。傷ついたアジュラーンを追って、ビン・ジルウィーが切り殺した。城塞の外で待機していた仲間も突入した。代官を失ったラシード軍の守備隊は混乱の中で行きどまりの路に追い詰められ、およそ1時間ほどの凄まじい戦いで壊滅的な打撃を受けて降服した。アブドルアジーズ側にも死者2名、負傷者3名がでた。

 

近郊で待機していた20人の仲間も駆けつけた。リヤードの住民はアブドルアジーズに忠誠を誓った。

修復された今日のマスマク城塞

 

3-リヤードへの帰還

今、サウード家は再びリヤードの主となった。アブドルアジーズはクウェイトの父のもとにリヤード奪回の成功を伝える使いを差し向け、父と一族をリヤードに迎え入れる準備をした。

 

リヤードの住民は、ムワッヒドゥーンの主導者でありサウード家の首長であるアブドッラハマーンの一行を歓喜して迎えた。

 

アブドッラハマーンは町の有力者やウラマーたちを呼び集めると、一同の面前でサウード家首長の座を息子アブドルアジーズに譲ること、サウード軍の指揮権や政治の全権を彼に任せること、そしてアブドッラハマーン自身はイマーム(イスラーム諸国の宗教的最高指導者)の地位と称号を保持することを伝えた。サウード家に代々伝えられてきた首長の証である「ラハヤーンの剣」が、父から息子の手に渡された。政治と宗教二つの権力を分担したふたりは、常に連帯して助け合った。父を深く敬愛する息子は、父を最高顧問として、私的にも公的にもその権威を大切にした。父は息子が出陣して留守の折には、しっかりとその代理をつとめて息子の信頼に応えた。

 

もちろん、ラシード一族がこのまま手をこまねいているはずがなく、1902年秋には新たな作戦行動を起こしていた。アブドルアジーズはリヤードに安住してはいられなかった。崩れた城壁を急ぎ修築し、包囲に耐えるようしっかり補強した。そして十分な食糧を貯蔵して、リヤードの守りを父と地元の守備兵に委ねると町を出た。周辺の部族は貧しく、その多くが味方ではあったが、戦闘になっても大きな兵力を供給する力はなかった。町を出て軍を整え、自由に襲撃できる拠点が必要だった。サウード家の今の力で強力なラシード軍に真っ向から太刀打ちできる見込みは少ない。アブドルアジーズは南に向かった。そしてできるだけ敵を南におびき寄せる戦術をとった。アブドルアジーズと部下たちはそれぞれナツメヤシの林に姿を隠し、奇襲の銃撃によって押し寄せるラシード軍を追い散らす作戦にでた。あちこちから不意をつかれて、ラシード軍は混乱の中で手痛い打撃をうけて退却した。

 

ラシード軍の攻撃を退けたニュースは四方に広がり、人々はアブドルアジーズのもとに馳せ参じた。ナジド地方南部のほぼ全域が味方として参戦するようになった。

 

ラシード軍は今度はクウェイトに向けて進軍を開始した。そしてムバーラクを討つ様子を見せた。ムバーラクは動転してアブドルアジーズに救援を求めた。アブドルアジーズは直ちにクウェイトに向かった。ところがこれはラシードの策略であった。サウード軍がクウェイトに向かったのを確かめると、矛先をすぐにリヤードに変えて攻撃をしかけてきた。リヤードの守りは堅い。アブドルアジーズはリヤードの救助に戻る代わりに、ラシード家の本拠地シャンマル地方に現れ、奇襲をかけた。ラシードは大急ぎで軍を北へ退かざるをえなかった。

 

各地の住民や遊牧部族を巻き込みながら、その後もラシード軍との一進一退の戦いは繰り返し続いたが、この間にラシード家の支配する領域は少しずつ失われていき、1903年までにはカシーム地区を除くナジド中央部の大部分がサウード家の支配下に収まった。1904年にはオナイザ、ブライダのカシーム地方の町もサウード家に忠誠を誓った。もっとも、その後もカシーム地方では何度となく反乱がくり返されている。オナイザ攻略の際には、アブドルアジーズの親族の若者たちが敵の陣営に参加していた。祖父ファイサル亡きあと権力争いを起こして死んだ伯父サウードの子孫たちであった。アブドルアジーズはサウード家のこの若者たちを無条件で許した。しかし、このとき従順な態度を示したものの、彼らはその後も反逆を企てる危険な存在であった。

 

サウード家のリヤードにおける政権回復と急速な勢力拡大に、危機感を募らせたラシード家はオスマントルコ政府に援助を求めた。オスマントルコは、かつてラシード家が強力となったときにはこれを妨害しようとしたが、今はサウード家の巨大化を何としても阻止しなければならない…アラビアの部族民を互いに戦わせて勢力を封じなければならない…。

 

1904年夏、トルコは武器や物資のみならず、強力な正規軍をラシードの援軍として投入し、大軍を組んで反撃に出た。サウード軍はカシーム地方、ブライダの南方ブカイリーヤの地でこれに応戦したが、トルコの優れた兵器や大砲の威力に苦戦を強いられ、この戦いではアブドルアジーズ自身も重傷を負った。このブカイリーヤの戦いは、幾度か変転があったものの最終的にはアブドルアジーズ側の勝利に終わった。トルコ軍は撤退し、ラシード軍はシャンマル高原地区の境界の内側の村々に退去した。

 

翌1905年、オスマントルコはバスラの駐屯地から総督アハマド・パシャ指揮下の軍隊を、マディーナからもスィドキー・パシャ指揮下の軍隊を派遣してカシーム地区に配備した。再びカシーム地方は、サウード派、トルコ派、ラシード派に分裂して混乱の様子をみせはじめた。

 

その頃、半島の南でイェメンの情勢が急変していた。父親の死によってイェメンの新しいイマーム(ここではイスラームの指導者のみならず統治者でもある)となったヤヒヤーが、オスマントルコ帝国の統治に対する反抗運動を繰り広げ、ヤヒヤーの反乱軍が首都サヌアを包囲した。そのためオスマントルコは中央アラビアに兵力を注いでおくことができず、軍を南に引き戻した。アハマド・パシャの軍隊もカシームを出てイェメンに移動していった。

 

カシーム地区ではラシード軍が親サウード派の村や町の襲撃を始めた。住民の要請を受けたアブドルアジーズはナジドの定住民部隊、ムタイル族、オタイバ族をひき連れてカシームに出陣した。ブライダの西方ラウダト・ムハンナで戦闘が始まった。このとき乱戦の最中に、ラシード家の首長イブン・ムトイブが銃撃され殺された(1906年)。首長を失ったラシード軍は動揺し慌てふためいてハーイルに逃げ帰ってしまった。

 

ラシード家では息子のムトイブが父の後を受けて新首長となり、今後はシャンマル領域内に定住化する政策をとると伝えてきた。このときアブドルアジーズはこの申し出に合意して、カシーム地区の北、シャンマルの境界線の北側の土地と部族をラシード侯国の支配する領域として認めている。その後ラシード家では継承権争いが起こり、内紛でムトイブとその3人の兄弟のうち2人が殺され(1907年)、もはやナジドのサウード家の敵ではなくなった。カシーム地方は再びナジドのサウード家の支配下に収まった。

 

一方、東部のハサー地方は未だオスマントルコの領地とみなされていた。オスマントルコの総督が駐屯部隊とともに居座っていた。しかしながら、この頃にはオスマン帝国の力は確実に衰退していた。1912年のバルカン戦争でそのおとろえが明らかになると、アブドルアジーズは部隊を編成してハサーの中心ホフーフに向けて進軍した。トルコの駐屯部隊はホフーフの堅固な城塞で守備を固めていた。トルコの兵隊も町の人々も眠りについた真夜中に、サウード軍が見張りの警備兵を襲って城壁を越えると、忍び込んでいた味方が城門を開けて導き入れ、城塞にサウード軍がなだれこんだ。奇襲に慌てたトルコ兵は狼狽して、そのほとんどが降伏した。トルコの重税を疎んでいたハサー地方の住民たちはサウード軍を歓迎した。このときを最後にトルコ軍はハサー地方から撤退した(1913年)。

 

ハサー地方はアブドルアジーズの支配下に入った。アラビア湾沿岸に開かれた村や町、そして海への出口が確保された。荒涼とした砂漠とアラビア湾の海からなるこの地方が、まもなく世界で最も富裕な地に変わることをアブドルアジーズはまだ知らない。

 

4-ナジドとハサーのスルターン

アブドルアジーズはついにナジドとハサーの支配者になった。アブドルアジーズはリヤードに凱旋した。住民はもちろん、気難しいムワッヒドゥーンのウラマーたちも歓声をあげて出迎えた。父は大祝賀会を催して、部族の長老たち、各地の指導者たち、軍の司令官たち、ウラマーたち、他の有力者たちを前に、アブドルアジーズにスルターン(君主)の位を与えた(1913年5月)。そして、このときから大サウードと呼ばれた父祖サウードに因んで、イブン・サウードと呼ばれるようになった。

 

10年ほど前にリヤード奪回を果たしてから、ハルジを支配下に治め、カシームを制服し、トルコ軍を追撃し、ラシード軍を粉砕し、そしてハサー地方を併合した。アブドルアジーズは多くの困難を経験しながらも、腹心の精鋭たちの献身的な働きに支えられてナジドとハサーのスルターンになったのである。

 

しかしながら、この間の度重なる反乱と鎮圧が語るように、アラビア半島の統一と安定はまだ遠い。かつてのイブン・アブドルワッハーブや大サウードの時代のように、人々を熱狂的に結集する強力な力が欲しかった。ラシード家はシャンマル族を頼りとした。アブドルアジーズはリヤードとその周辺の住民に頼ることができた。しかしそれ以外の部族は気まぐれだった。一夜にして敵に寝返ってしまうことさえある。遊牧民部族を統制することは難しい。少しでも力が緩めば、まとまった連合もすぐに小さな単位に分裂してしまう。自由を身上とする遊牧民は自分の一族には無条件の忠誠心をささげるが、これは同時に排他性を意味し、他部族の者はときに合法的な獲物となった。アブドルアジーズを支持した多くの部族もそうであった。戦運が不利となれば風のように去り、勝者に合流して敗者を略奪の対象とする。さらに共通の目的を失うとすぐにまた反乱と服従にもどってしまう。

 

アブドルアジーズは解決策を見出さねばならなかった。統一国家は不確実な部族の支持では維持できないのだ。部族を越えた同質の共同体が必要であった。サラフィー運動が大きな政治手段となりうることはまちがいなかった。サラフィー運動の、あの勢いを政治に生かすことができるなら…自分はスルターンでありサラフィー運動の推進・守護者ではないか…ヒジュラ(移住)を呼びかけよう。かつて預言者ムハンマドはマッカからマディーナにヒジュラして布教態勢を立て直したではないか。イスラームが新しいスタートを切る輝かしい歴史を画したのがこのヒジュラだった。

 

居所を定めぬベドウィンを定住させ、土地を耕して作物をつくる民に変えなければならない…彼らの生活を安定させるためには農耕の土地と安全の保証が必要であろう…支給金や特権を与えて、彼らを井戸の周りにとどめ、灌漑と耕作にとり組む開拓村を建設する…開拓村に子供が生まれ、生産物を生む土地に定住する家族が育っていく…村を守る男たちには軍事訓練を平行して行おう。村の掟が部族の掟に優先する社会ができるであろう。彼らの古い意識にうち勝つ新しい精神は、サラフィー運動による宗教教育から生まれるであろう。信仰を同じくする人々が集まる村は同胞愛に支えられ、アッラーの掟がすべてに優先することだろう。ムワッヒドゥーンの開拓村を建設しよう…。

 

アブドルアジーズはウラマーたちの支持を得て、実行に移った。ムワッヒドゥーンの説教師たちが各地に派遣され、熱心に開拓村建設の理想を語り、志願者を集めて回った。少数ではあったが同志がみつかった。アブドルアジーズは、最初のこの志願者の集団をアルターウィーヤのオアシスにヒジュラさせた。そこはナジドとハサーの中間あたり、井戸が数カ所とナツメヤシの林がある土地だった。彼らは仕事にとりかかった。土地と水の権利が彼らに与えられた。水路ができ、モスクが建った。アブドルアジーズはしばしばアルターウィーヤを訪れて彼らを激励した。学校を建て、穀物の種を配給し、領地を守るために男たちには銃を与えた。モスクには彼ら先駆者たちの名前を記録にとどめて栄誉を与えた。

 

開拓村は成功した。アルターウィーヤの土地は思いもかけぬ実りをもたらしたのだ。この地方はもともとムタイル族の領域だったこともあって、この成果に、族長ファイサル・ドウィーシに率いられたムタイル族も集団で参加を希望してきた。かつて反乱の元凶であったこともあるこの男に、アブドルアジーズはこの土地を預けた。今後の活動にのぞんで、かつての不和を捨て去る姿勢をはっきりと示したのだった。

 

新しい仲間があちこちから集まった。小さな集団で始まった開拓村は、大きな村となり町に発展していった。住民はサラフィー思想の信仰を守り、宗教を同じくする同胞の固い絆で結ばれていった。そして同じ構想のもとに、各地に同胞団(イフワーンと呼ばれる。サラフィー運動に共鳴した人たちで、その中でも特にサウディアラビア統一のためにサウード家と共に活躍した人たち)の村が誕生していった。彼らは熱狂的なムワッヒドゥーンとなり、新しい政治の中核をなす大きな力となっていく。ムワッヒドゥーンの主導者でもあるアブドルアジーズは、このような開拓村の同胞団をその手中におさめたのだった。

 

5-英国の接近

20世紀をむかえて、ヨーロッパ列強の対立は一段と激しくなっていた。特にドイツ資本主義の発展はめざましく、英国を凌ぐばかりの勢いであった。しかしながらアジアもアフリカもすでに英・仏の勢力下にあったため、ドイツはオスマントルコに接近して影響力を中東に拡大しようとした。

 

1914年、第一次世界大戦が勃発し、中東地域はトルコ=ドイツ同盟と英=仏連合との衝突の場となった。

 

当時、英国はアブドルアジーズについてはヒジャーズのフセイン・マッカ大公ほど重要視はしていなかった。しかし当時の国際情勢から、関心はヒジャーズ地方だけでなくアラビア半島の全域に向けられ、オスマントルコに与したラシード家に対抗する力としてアブドルアジーズに接近してきた。アブドルアジーズは英国との会談を慎重に重ねた。そして英国側につくことを決断した。

 

このとき英国がアブドルアジーズのもとに派遣したウィリアム・シェイクスピア大尉について知る人は少ないが、アブドルアジーズは後に「今まで会った最も卓越した西洋人は?」と尋ねられたとき、即座に「シェイクスピア大尉だ」と答えたという。アブドルアジーズの信頼と友情を得たこのシェイクスピア大尉は、アラビアのローレンスより10年も早くアラビアに登場し活躍した人物だった。彼もまた巧みなアラビア語を話したという。アブドルアジーズはシェイクスピアとともに条約の準備にとりかかった。このときのシェイクスピアの使命は、アブドルアジーズにラシード侯国に対して軍事行動を起こさせることであった。アブドルアジーズは要求を受入れ、攻撃を開始した。シェイクスピアも従軍してサウード軍の砲撃の指導をしていたが、1915年1月24日、ラシードの騎兵隊に襲撃され死亡した。彼の死は英国にとってもアブドルアジーズにとっても不運な出来事であった。

 

1915年末、シェイクスピアの上司であった英国政府アラビア湾地域担当・施政長官サー・パーシー・コックスとの間で条約の調印がなされた。条約の主旨は:アブドルアジーズにトルコから独立した領土の支配者としてナジドとハサーの主権を認める。英・仏がオスマントルコの領土を分割するときにアブドルアジーズの領土はこれに含まない。アブドルアジーズは英国と条約を結んでいる同盟者の領域を攻撃したり、その敵を助けたりしない。英国はアブドルアジーズに勲章と補助金を与える。もし新たに攻撃の対象となった場合には、英国はアブドルアジーズを武器および費用面でも支援することを約束する、というものであった。

 

英国がアブドルアジーズの主権を承認し、その領土と利益を保護する約束をしたのだ。アブドルアジーズにとって、この条約はトルコの協力者であるヒジャーズのフセインから身を守るためにも重要であった。アブドルアジーズはこの協定に満足して次なる作戦を考えていた。それはフセインからヒジャーズを奪うことであった。

 

しかしながら英国の同盟者を攻撃しないという約束は、その後のヒジャーズ攻略作戦のネックとなってくる。すでにエジプトを占領下においた英国は、スエズからインドへの通路を敵国オスマントルコに支配させておく気はなかった。内々に、マッカのフセイン大公をトルコから引き離すいろいろな手段を講じていた。英国はフセインがトルコに忠誠を示しながら、一方でアラブの民族主義者グループと関係を深めており、いつかはトルコの支配に反乱を起こす準備を進めているのを知っていた。フセインはすでに英国当局とも接触を何度がもっていた。

 

英国はフセインに対して、ヒジャーズの支配権を認め、アラブ民族の独立運動を支援し、戦後は「アラブ(連邦)」を独立させ、将来は彼を「アラブの王」とする約束を申し出た(フセイン=マクマホン協定、1915年)。中東の防衛にあたって、ムスリム住民のあいだから英国に対して反乱が起こることは、是非とも避けたいことだった。小さなイスラームグループの反乱が、大きくイスラーム世界に飛び火することは火を見るよりも明らかであった。同じイスラームを信奉するオスマントルコが、臣下のフセイン大公にジハード(聖戦)の呼びかけを促しているとの情報に、占領下に多くのムスリムを抱えている英国は危機感を抱いた。フセインは預言者ムハンマドに繋がる名門シャリーフ家の出身であり、イスラーム世界で彼の言動は大きな影響力をもっている。彼こそオスマントルコのジハードの呼びかけに対して、唯一その無効を宣言できる人物でもあるのだ。英国はフセインに賭けた。

 

アブドルアジーズとの条約調印とほぼ時を同じくして、大公フセインとカイロ駐在の英国高等弁務官マクマホンとの間で「アラブの反乱」の計画が秘密裏に交わされていた。両者間で成立したこの合意は:アラブはトルコに対し反乱を起こし攪乱させ、英国に側面協力する。英国はその代償としてアラブ地域の独立を支援する、というものだった。

 

1916年、マッカ大公フセインは英国側に転身した。アラブ民族の独立を宣言し、トルコに対して反乱を起こした。アラビアのローレンスを一躍有名にした「アラブの反乱」である。フセインの3人の息子がそれぞれ指揮をとるアラブ反乱軍が攻撃を開始した。フセインには、今度は英国から大量の武器と軍資金が送られてきた。7月、マッカとジェッダに配備されていたトルコ軍守備隊が降伏した。トルコ軍に代わって英国の軍人たちがジェッダに入った。英国の積極的な支援をうけて、マディーナを除いたヒジャーズ地方の主要都市からトルコ軍は一掃された。

10月、フセインは「アラブの王」を宣言した。英国の援助をうけてフセインの軍事力はどんどん強化されていく。アブドルアジーズは不安をおさえ切れなかった。以前からフセインの野心を警戒していたが、「アラブの反乱」の蜂起は衝撃だった。

 

アブドルアジーズは自分自身を冷静に評価する能力をもった人物であった。自分の力の限界も正確に見つめることができた。大公フセインが自分よりも国際政治の場で注目を浴びる立場にあることは十分承知していた。しかし、オスマントルコの肝煎りでマッカ大公に就任し、トルコ人の妻をもち、トルコ風の暮らしをする、あのフセインがアラブ民族独立の英雄となり、「アラブの王」を宣言するとは…!アブドルアジーズは直ちに抗議した。フセインに、ナジドとヒジャーズの間の国境の取決めに合意するよう強く要求した。フセインはこの申し出を一蹴する態度にでた。両者の関係は悪化した。

アブドルアジーズ王、バスラ訪問中にコックスとガートルード・ベルに会う

 

英国は共通の敵トルコに対抗する上で、この両者の関係をなんとか改善しなくてはと考えた。1916年11月、コックスの提案をうけて英国政府は同盟国の首脳たちを慰労する大会をクウェイトで開催した。クウェイト首長らとともにアブドルアジーズも公式に招待された。アブドルアジーズにはインド帝国第一級の勲章が授与され、栄誉が称えられた。同時にこの大会では、アラブは共通の目的のため一致して大公フセインに協力することが宣言された。このとき大公フセインは感謝の挨拶を電報でクウェイトに送っている。

 

続いてコックスはアブドルアジーズをバスラに迎えて、近代の先端技術を駆使した新型兵器の数々を披露している。アブドルアジーズの驚きはたいへんなものであった。このとき初めて飛行機を見たという。また、このとき見識豊かな英国の婦人ガートルード・ベルに出会っている。遠隔の地で女性が積極的に公務を果たしている姿もアブドルアジーズには驚きであったにちがいない。

 

1917年、フセインの三男ファイサル指揮下のアラブ反乱軍はヒジャーズ最北部のトルコ軍最後の拠点を制覇し、アカバ湾を占領してヨルダンからエルサレムに入り、さらにダマスカスに向かって進みシリア、パレスチナ地方でも英国の作戦の大きな援軍となった。

 

一方でイラク方面の英軍は、シャンマル族の執拗な妨害を受けて膠着状態が続いていた。そこで英国はアブドルアジーズに再びラシード侯国に対して軍事行動を起こすよう要請してきた。アブドルアジーズは攻撃を開始した。ところがトルコの敗色が濃くなったのをみてとったラシード侯国は、トルコに背き、ヒジャーズのフセインに近づいて同盟を組もうとする動きにでた。英国にとっては、ラシード侯国が反トルコ勢力となってフセイン側につくのは好ましいことである。英国は今度はラシード侯国への攻撃を中止するよう要請してきた。アブドルアジーズにとっては不快であった。

 

同じ頃、フセインも英国に対する不信感を深めていた。秘密裏に締結されていたサイクス=ピコ協定(1916年5月、英・仏・露3国がオスマントルコ領アラブ地域の将来の勢力範囲の分割を取決めた。仏が領有を主張するシリア地域は、英国がすでに「アラブ(連邦)」建設を約束していた)が公けになり、「アラブの反乱」が実は英国のシナリオによる謀略にのったものだったと暴露されたからである。さらにバルフォア宣言(1917年)が公表されて、パレスチナの土地にはユダヤ人にも郷土建設が約束されていることが分かったのだ。この時点ではすでに全面的に英国の援助に依存していたフセインだった。彼には怒りを露にする以外に為す術がなかった。

 

そのころナジドとヒジャーズの境界地区にあるホルマ村の領主ハーリド・ビン・ルアイがフセイン側と対立を起こし、アブドルアジーズの陣営に参加を表明したことから、フセインとアブドルアジーズとの間でついに衝突が起きた。フセインは直ちにホルマ村の攻略を命じた。しかしながらフセインが送ったヒジャーズ部隊は、同胞団を味方にしたハーリド軍によって迎撃され、あっけなく敗走してしまった。同盟者どうしのこのようなトルコ軍を利するような行動に英国は苛立ちを見せ、アブドルアジーズに対してハーリドへの支援を停止するよう強く要請した。

 

まもなくして第一次世界大戦が終結した。マディーナで籠城を続けていた最後のトルコ軍部隊も降伏した。トルコの脅威が消えて、まず、サウード軍に戦いを挑んできたのはフセインだった。息子アブドッラーを指揮官に任じ、新兵器で装備された強力なヒジャーズ軍をホルマ村の奪回に向かわせた。途中ホルマ近郊のトラバ村占領すると、この村を略奪し、同胞団の住民を徹底的に殺戮した。報告を受けたアブドルアジーズは直ちに大軍を動員して自らトラバに向かった。

 

それには及ばなかった。トラバ村近くに集結していたイブン・ビジャード指揮下のオタイバ族の同胞団部隊やイブン・オマル指揮下のカハターン族、ハーリド指揮下のホルマ村の部隊が、三方からアブドッラーの陣営を急襲した。ヒジャーズ軍は不意をつかれたうえ、同胞団部隊の勇猛ぶりに恐慌してなすすべなく、アブドッラーも慌ててターイフに逃げかえった。ヒジャーズ軍の残した新兵器が同胞団の手に移った。同胞団の戦闘力に恐れをなしたフセインは英国に支援を求めた。

 

このときも英国はフセイン側を支持する立場に立った。ホルマ村はヒジャーズの一部とみなされ、その宗主権はフセイン大公にあるとし、アブドルアジーズに対してこの問題には介入しないよう警告した。アブドルアジーズは警告を無視し、同胞団を動員してアブドッラーの軍を全滅させる行動に出た。警告を無視したことに対して、英国政府はアブドルアジーズへの補助金の交付を打ち切った(1919年5月)。さらに、同胞団をナジドに引き揚げること、ホルマの地域については境界の画定交渉が済むまで領有しないことを強く要求し、応じない場合には軍事制裁を行なう構えを見せた。アブドルアジーズは要求を受け入れ、このときは軍を撤収したが、彼はヒジャーズ併合の道に確実に手応えを感じでていた。彼の中に大きな自信が生まれていた。

 

ホルマ村の境界問題はその後5年の間、未解決のままであった。

 

第一次世界大戦当時はアシール地方もトルコの統治下にあった。地元のアーイド家のハサンがトルコの代官を務めていたが、終戦とともにトルコの軍隊が去ると、このハサンが実権を握りアシール地方の支配者となった。しかし横暴な統治の在り方に反発したカハターン族や他の部族がアブドルアジーズに代表を送って陳情した。アブドルアジーズは他部族の権利も尊重するよう要請したが、ハサンはこれを受けつけなかった。そこでアブドルアジーズはビン・ジルウィーに軍の指揮をゆだねてアシール地方を制圧させた。このときはハサンはサウード家の統治を受け入れたものの、やがてサウード家の派遣した知事ウカイリーとのあいだに衝突が生じると、アーイド家の一族を糾合して反乱を起こした。好機とばかりにヒジャーズのフセインが介入し、ハサン側の援護にまわり、武器や兵力の支援をした。勢いを得たハサンの反乱軍はアブハーを占領、ウカイリーは降伏した(1920年)。

 

その頃アブドルアジーズはクウェイトと国境を巡っての紛争に忙殺されていた。すでにムバーラクは亡く、その後継者のジャービルも死んで、クウェイト首長の座は気性の激しいサーリムに移っていた。サーリムはナジドとの国境をマニーファ近くに定めると公言し、そこに要塞を築くと伝えてきた。これに同意できないアブドルアジーズは、サーリムが主張する領域内の村にムタイル族の同胞団村を建設することにした。

 

この地域は古くからムタイル族の領有地だったからだ。サーリムは大軍を送って威嚇し、ムタイル族の退去を要求した。そこでムタイル側がアルターウィーヤ開拓村にいるムタイル族の大族長ファイサル・ドウィーシに救援を求めると、すぐさまアルターウィーヤから同胞団部隊が襲来し、クウェイト軍を紛糾してしまった。

 

アブドルアジーズはクウェイトの領土は周辺30キロまでであると主張し、両国間の関係はますます悪化し緊張が続いていた。クウェイトはラシード侯国に救援を求めた。クウェイト=シャンマルの大部隊が編成され、クウェイト郊外のジャハラ村に集結した。アブドルアジーズはファイサル・ドウィーシに出撃を命じた。ムタイル族同胞団の大部隊が出撃した。激しい戦闘のなか、集中射撃をうけて多くの犠牲者を出しながらも、勇敢な同胞団はクウェイトの町に向かって進んだ。しかし、そこにはサーリムからの要請をうけて英国の軍艦が沖合で待ちうけていた。英国の介入でファイサル・ドウィーシは軍を撤退せざるを得なかった。まもなくしてサーリムが急死したため、新首長アハマド・アルジャービルとアブドルアジーズの間で、以後クウェイトとナジドの関係は改善された。

 

しかしながらシャンマル高原地帯から北を領有するラシード家は今回もまた、依然としてアブドルアジーズの前にたちはだかる敵となった。そして、この宿敵にはマッカの大公フセインの一族がしきりと協力を呼びかけている。ラシード家を打倒しなければならない。アブドルアジーズは出陣を決意した。

 

クウェイトとの関係が落ち着いた1921年、アブドルアジーズは弟のムハンマドに同胞団部隊の指揮をゆだね北に向かわせてラシード家の本拠地ハーイルを撃たせ、一方息子サウードにも一軍を預けてシャンマル族を攻撃させた。アブドルアジーズ自身はカシーム地区に陣をはった。ラシード軍はハーイルの堅固な城塞に籠城して、長期の包囲戦のもようとなった。城内では内部対立が起き、ラシード侯国の首長の座はアブドッラーからイブン・タラールに移った。アブドッラーは城を出てアブドルアジーズに保護を求めてきた。新首長のもとで包囲戦は続けられていたが、このイブン・タラールも結局降伏して身柄をアブドルアジーズに保護されることになり、ここに長年の宿敵ラシード侯国は滅亡した。ハーイルの住民はアブドルアジーズに忠誠を誓い、シャンマル地方は併合された。

 

このシャンマル併合に先だって、アブドルアジーズはナジド各地の有力者や部族長たち、ウラマーたちをリヤードに招集して集会をもち、自分の公式な呼称を「ナジドとハサーのスルターン」から「ナジドとその属領のスルターン」と改めることに承認を求め、支持されている。この頃、英国はヒジャーズ王フセインの三男ファイサルをイラク王に、二男アブドッラーをヨルダン王に擁立することを決定している(英国は1921年3月カイロで開催した中東会議でシャリーフ家のフセイン一族について検討し、これらのことを決定した。しかしサウディアラビアでは、ヒジャーズ国も王位も認めていない)。

 

1922年までにアブドルアジーズの「ナジドとその属領」はシャンマルの北側、すなわちアラビア半島の肥沃な三日月地帯の境界線からルブウルハーリーの大砂漠までの全オアシスをその領土とした。そしてその周りを囲むようにヒジャーズ、イラク、ヨルダンと、フセイン一族が隣接して存在することとなった。そしてこの頃からアブドルアジーズはヒジャーズの併合に真剣に取り組み始めた。マッカ、マディーナの二大聖地を擁するヒジャーズを奪回しなければアブドルアジーズが押し進めてきたアラビア半島統一の覇業が完了したとはいえないのだ。あの異端者フセインの手中に二大聖地があってはならない…。

 

一方、アシール地方のアーイド家のハサンが起こした動きについては、息子ファイサルと猛将ハーリド・ビン・ルアイを派遣して、反乱の平定を命じた。ナジド軍にはカハターン、ザハラーン、ガーミド各部族の部隊が参加して、難なくアブハーを占領し、再びアシール地方は制定された。ハサンはアブドルアジーズ王の庇護のもと、リヤードで余生を送った。

 

6-ヒジャーズ併合

「アラブの反乱」の英雄として、アラブ民族主義運動のシンボルとして登場した大公フセインには、「アラブの王」の座が約束されていたはずであった。しかし、第一次世界大戦後に英国がフセインに求めたものはパレスチナの地にシオニストを受け入れることであった。怒りを露にするフセインに、英国のチャーチルはローレンスを派遣して、ひき続き多額の補助金を与え、ヒジャーズを外敵から保護していく約束を申し出た。フセインはこの申し出を拒絶した。それはまた、英国からの援助を失うことであった。

 

かつてオスマントルコから援助を受け、その後は英国からの補助金を受けてきたフセインのヒジャーズは、この大きな収入減を増税で補おうとした。巡礼者に対する巡礼税、ジェッダ港の貨物税、関税の引上げなど、様々な新税・増税の措置が取られた。人々の負担が増大し、不満も大きくなった。遊牧民のなかには巡礼者を襲って略奪するものも出てきた。治安が悪化したうえ、経済的な負担も膨れて、巡礼者を送り出すイスラーム諸国からもフセインに対する非難は高まっていた。

 

そんな折、フセインは内外からの痛烈な非難をあびることになる大きな過ちを犯してしまった。オスマントルコ帝国が崩壊して、トルコ共和国政府がカリフ制度を廃止すると、フセインは自らカリフに就任することを宣言したのである。あまりに露骨なこの野心に、エジプトが、インドが、英国が、そしてもちろんナジドのアブドルアジーズも、強い不快感を示して反発した。とくに巡礼制限を受けてきたムワッヒドゥーンのナジド住民から見れば、フセインは堕落した異端者の見本のような男である。アッラーの使徒の後継者(カリフ)を名乗ることなど絶対に許せなかった。彼はマッカの礼拝に課税し、巡礼を制限し、モスクを虚飾で飾り立てているではないか。

 

アブドルアジーズは今こそフセイン打倒にのり出すときと判断した。

 

19247月、イード・ル・アドハー(巡礼月の犠牲際)の祝賀に集まった同胞団の有力者たちに、アブドルアジーズはヒジャーズ攻略の計画を語り、熱狂的な支持を得た。イスラームの聖地浄化をかかげて、同胞団の聖戦が準備された。

 

オタイバ族の族長イブン・ビジャード率いるオタイバ族同胞団とカハターン族、それにハーリド率いるホルマ部隊が合流して、まずターイフに向けて進行を開始した。ターイフの守りを固めていたヒジャーズ軍は町の北西の高台に後退し、フセインの長男アリーが率いる救援部隊と合流して砲撃で防戦にあったが、同胞団諸部族の猛攻にはとても太刀打ちできず、たちまち敗退した。ターイフを占領した同胞団は、このとき長年のうっぷんを晴らすかのごとく徹底的に略奪を行い暴れた(19249月)。アブドルアジーズはこれを憂慮し、外国からの干渉を避けるためにも同胞団の暴力行為を禁じて、イブン・ビジャードとハーリドに対しては指示があるまでマッカに進攻しないよう厳しく注意を与えた。

 

ターイフ陥落の知らせに、ヒジャーズの人びとは大変な脅威がやってきたことを悟った。フセインもかつてない難事に直面したことを知った。フセインは英国に軍事介入を求めたが、英国はこれを拒否した。ジェッダの住民もこぞって英国の保護領下にはいることを望んだが、聖地を含むこの地域の問題に介入することを、英国は慎重に避けた。

 

アブドルアジーズの攻撃を恐れたヒジャーズの人々は、フセインに退位を求めて、ナジドとの和解の道を探ろうとつとめた。アラブの王とカリフの呼称を放棄すること、長子のアリーにマッカの大公位を譲ることを要請した。フセインはこれを受け入れ、家族とともにマッカを出てジェッダに移り、ジェッダ港からアカバに向けて発った(192410月)。

 

ヒジャーズでは新しい政府が組織され、アブドルアジーズとの和平交渉の準備が進められていた。その一方で、マッカ大公アリーはジェッダの防備を強化し、アラブ諸国から傭兵を集めていた。聖地マッカが戦場になるのを避けるため、軍をマッカから移動させてジェッダ寄りのバハラの地に駐屯させた。ところが、そのため無防備となったマッカの町に無法者が侵入をはじめ、略奪行為が頻繁に起こるようになった。知らせを聞いて、ターイフに止まっていたイブン・ビジャードとハーリドはアブドルアジーズの指示を待たず、ただちに同胞団部隊を率いてマッカに進軍し、流血を見ること無く聖地を占領した(192410月)。

 

マッカは同胞団の制圧下に入った。同胞団兵士は聖地においては軍規正しく行動した。聖域を洗浄し、モスクの華美な装飾を取り除いた。聖人たちの墓所を壊したり、煙草を焼き捨てたりと極端な行動もとったが、マッカ占領は思いもかけない形で成功した。アブドルアジーズはハーリドをマッカ知事に、イブン・ビジャードをターイフ知事に任命した。

 

1924年11月、アブドルアジーズはリヤードを出発し、12月にターイフからマッカに入った。身を清め、巡礼布をまとい「ラッバイカ、アッラーフンマ、ラッバイカ…(アッラーよ、あなたの御前にはべります)」と唱えながら、大勢の市民が出迎えるなかを、ハーリドと同胞団兵士に守られてアブドルアジーズは裸足になって聖なるモスクにはいっていった。カアバ神殿にひざまづき、神殿の黒石に口づけして、静かに礼拝をおこなった。

 

翌日、マッカの郊外に設置した天幕の中でアブドルアジーズは住民を代表する人びとの表敬を受けた。ヒジャーズの住民はすでにヒジャーズ軍の力が同胞団部隊に及ばないことを理解していた。軍事対決を避けて、妥協点を探ろうと同胞団側との調整に努力を重ねていた。

 

アリーは不安であった。ナジドとその属領のスルターン、アブドルアジーズは着々とヒジャーズ地方の支配体制を固め、マッカの住民の支持を集めていくではないか。アリーはジェッダにたて籠り、軍事対決の構えをみせた。

 

アブドルアジーズはジェッダへの進軍を許可した。同胞団はただちにジェッダを包囲した。包囲軍はナジドの定住民部隊、オタイバ族、カハターン族、ハルブ族、ムタイル族その他の大同胞団部隊であった。アブドルアジーズは強行突入を避け、包囲作戦でアリーの降伏を待った。ジェッダの城壁内には諸外国の領事館が置かれており、外国人居留者の安全に配慮したためでもあった。

 

巡礼(ハッジ)の月がやってきたが、ジェッダの包囲戦は続いていた。アブドルアジーズにとっては、聖地マッカの守護者として、スルターンとして、安全無事にこの大行事を終わらせねばならない。イスラーム諸国から多くの来客を迎えるこの時期だからこそ、内外の信徒に、聖地の管理者に相応しい能力を示さねばならない。ジェッダ港が封鎖されて利用できないため、アブドルアジーズはジェッダ以外の港から安全に巡礼者を受け入れることを約束し、海外のイスラーム諸国に例年どおりの巡礼を呼び掛けた。この年巡礼に参加した人々は少なかったが、行事は無事に終わった。

 

マッカ大公アリーにとっては、これは大変な屈辱だった。その上ジェッダの城壁内では、もはや資金も水も食糧も底をついて、状況は全く悪化していた。兵士の士気もすっかり低下してしまった。アリーの再三の援軍要請に英国が応えてくれる望みも、もはやないようであった。英国はアブドルアジーズと国境画定協定の交渉を進めていた。

 

英国はアブドルアジーズが確実にヒジャーズ地方を占領していく状況をみて、早急にヒジャーズとヨルダンのあいだに国境を画定する必要を感じた。アブドルアジーズにとっても、ヒジャーズの併合を承認させるためには国境の画定が必要であった。そこでナジドとイラクの間を定めた「バハラ協定」、ヨルダンとの間の「ハッダー協定」が調印され、これに従ってクウェイト、イラク、ヨルダンとの国境が決められた(1925年11月)。しかしながら協定が結ばれたにも拘らず、国境の問題はその後も紛争を起こすもととなっている。

 

1925年12月、アリーはついに退位を決意し、降伏した。そしてバグダードの弟ファイサルのもとに身を寄せるため、ジェッダを去っていった。ジェッダは開城された。続いてマディーナとヤンブーの町も降伏した。アブドルアジーズはジェッダ郊外に設営した天幕で次々とヒジャーズ軍の司令官やジェッダの有力者たちから忠誠の誓いを受けた。

ジェッダの有力者たちはヒジャーズ地方の独自性を守ることに執着していた。ヒジャーズはナジドとは文化のうえでも経済的においても比較できない先進性のある社会であったから、ナジドに吸収されることはとても了承できないことだった。アブドルアジーズは、ヒジャーズの諸問題はイスラーム諸国会議で協議し、その決定に委ねる、と公約した。

 

ヒジャーズの住民はアブドルアジーズをヒジャーズの王に推戴した。同じ君主が兼任することで、ナジドとヒジャーズは別個の地位と独自性を保つことができると期待した。ナジドのスルターンはヒジャーズの王ともなった。

 

1926年1月8日、マッカの大モスクの前でアブドルアジーズのヒジャーズ国王即位の式典が行われた。正午の礼拝の後に祝砲が放たれ、人々の歓呼のなか、「ヒジャーズの王およびナジドとその属領のスルターン」が誕生した。マッカやジェッダの有力者たち、ウラマーたちが続々と祝賀を述べ忠誠を誓った。

 

7-サウディアラビア王国の建設

念願のヒジャーズ併合が達成された。同胞団の手でアラビア半島統一の夢が実現したのだ。

 

アブドルアジーズには是非ともイスラーム諸国やヨーロッパ列強からも、自分のヒジャーズ統治の承認をとりつける必要があった。「ヒジャーズの諸問題はイスラーム諸国会議で決定する」と公言してきたのだが、未だ会議を経ずに、自らヒジャーズ王に就任していたからであった。この点をエジプトやインドなどのイスラーム諸国は快く思っていないことだろう…列強はどう見ているのだろう…だが、すぐにアブドルアジーズのこの不安は拭われた。ソ連が、英国が、フランスが、オランダが、次々と彼の「ヒジャーズの王およびナジドとその属領のスルターン」の就任を承認したのだ。

 

ヒジャーズの王はイスラームの二大聖地の守護者でもある。イスラーム諸国からの承認は列強のそれ以上に重要であった。アブドルアジーズは第一回イスラーム諸国会議を巡礼終了後のマッカで開催した(1926年6月)。トルコ、エジプト、インド、アフガニスタン、イェメン、ジャワ、ソ連、パレスチナ、その他多くのイスラーム国やイスラーム機関から代表が参加したこの会議において、アブドルアジーズは自らのヒジャーズ王の地位を揺るぎないものとした。そしてヒジャーズ王国の憲法ともいえる統治基本法を公布し、ヒジャーズの統治機構の整理や秩序作りに精力的にとり組みはじめた。

 

一方、同胞団兵士たちはヒジャーズからサラフィー思想に反する風習を一掃しようと奔走していた。彼らはアッラーがクルアーンの中で認めないものは、すべて認めなかった。飲酒はもちろん喫煙を禁じ、音楽や贅沢な暮らしを非難し、聖者や英雄を祭った廟所や石碑を撤去し、異端と決めつけたものを躊躇なく取り壊していった。ウラマーたちの間では、電話やラジオ放送にいたるまで忌まわしいものとして排斥しようとする動きがでた。無線通信機や電話線には悪魔が宿っていると彼らは考えた。アブドルアジーズはラジオを通して聖典クルアーンを流し、ウラマーにも同胞団にも放送の必要性を認めさせている。

 

半島の最も先進地域であるヒジャーズ全域が支配下にはいった今、武力ではなく秩序の力でヒジャーズを統制していかなければならない。アブドルアジーズは同胞団兵士たちの行き過ぎる行動を制御する必要を感じていた。そんな折に、マハマルの事件が起きた。

 

イスラーム諸国会議の開催を間近かに控えた巡礼期間中に、エジプトの巡礼団と同胞団の間に衝突が起きた(1926年6月)。巡礼月9日のウクーフの日(アラファートの丘に立って祈り、ミナに移動する日)に、エジプト巡礼団はキスワ(マッカのカアバ神殿を覆う黒布。美しい金糸刺繍が施されたこの掛け布は、毎年巡礼時に新しく取り替えられ、当時は毎年、エジプトから贈られていた)を運ぶマハマル(乗り物)を先頭に、ラッパを鳴らし音楽をかなでて賑やかに行進していた。ミナの谷付近にいた同胞団兵士が巡礼に音楽は禁忌であるとして行進を阻止しようと、エジプト軍の楽士に向かって投石した。巡礼中のマッカでは武器の携行が禁止されていたので同胞団兵士は武器を持っていなかったのだが、エジプト人将校が発砲したため25人もの同胞団が射殺され、多くの負傷者がでた。怒りの声がわき上がった。同胞団が危害を加える行動にでるのを恐れて、アブドルアジーズはただちに同胞団を鎮静させ、エジプト人将校を拘束し、マハマルのマッカ入りを禁じた。

 

外国人巡礼団は賓客である。また大事なイスラーム諸国会議をすぐ後に控えていたこともあって、処罰は差し控えた。同胞団兵士はこの措置に不満であった。25人もの仲間が射殺されて処罰が無いとは!アブドルアジーズは彼らの心情を十分察していた。彼らの宗教的感情を無視することはできない。今後はサラフィー運動が提唱する厳格なイスラームの戒律を順守すべしと命令を出した。自らの信仰心と威信を示すためでもあった。礼拝を怠った者に対して、飲酒した者に対して、酒の製造や販売に関わった者に対しても処罰を行なうとし、厳格にヒジャーズの宗教的環境の浄化を実施していく姿を見せた。

 

1926年7月にはナジドとヒジャーズのウラマー12人からなる勧善懲悪本部が創設された。この下に支部が設けられ、さらに全国に多数の支部が作られて、宗教的義務の違反の取締りにあたることになった。まもなくこれは宗教警察のごとき組織となり、反体制の活動を弾圧する手段としても利用されることになる。これによって一般大衆を取締る役目も権限も同胞団兵から支部のもとに移り、仕事がなくなった同胞団兵士の各部隊は解散して、それぞれの開拓村に帰っていった。

 

ヒジャーズ併合の立て役者たちには戦利品の恩賞は無かった。期待は裏切られた。このときから同胞団の間にアブドルアジーズに対する失望と不満が生じ始めた。

 

アブドルアジーズが英国との間で取り決めた国境画定協定も同胞団の期待を裏切るものだった。協定によってイラク、ヨルダン、クウェイト国境付近での襲撃活動が禁止されてしまった。宗教的名分にも適う、シーア派遊牧民に対する襲撃と略奪は、いまだ彼らの経済活動の一部となっていたのだが。

 

アブドルアジーズの新体制に反感を抱き、これに挑戦しようとする者たちが現れた。ムタイル族の長ファイサル・ドウィーシ、オタイバ族の長イブン・ビジャード、アジュマーン族の長イブン・ヒスレイン、いずれも半島の統一にめざましい貢献を果たした名将たちである。彼らを中心に同胞団の中に不穏な動きが出ているのを察知したアブドルアジーズは、急ぎリヤードに戻り、各同胞団の幹部たちを集めて自分の政策を説明する集会をもった。政策の基本はあくまでもイスラーム法に則したものであることを強調し、同胞団の妥協を求めた。また「ナジドとその属領」をヒジャーズと同格の呼び名として「ナジド王国」に改め、ヒジャーズがナジドより優位にあることはないとした。

 

しかしながらアブドルアジーズの要請に反し、ファイサル・ドウィーシらはイラクやクウェイトの国境周辺に襲撃を開始した。新たに国境画定の話し合いがなされ、英国がヒジャーズ=ナジド王国の独立を認め、アブドルアジーズの国家が国際的な承認を受けたばかりのこの時期に、協定を無視するような行動にでたのである。英国は軍事介入の構えを見せている。このまま静観を続けているわけにはいかない。アブドルアジーズ王は窮地に立たされていた。

 

自国民を統制できないのでは、独立国家として国際的な友好や信頼を保持できない。ドウィーシらの行動は公然たる反乱であり、紛争が続くかぎり、安心して暮らせる国家は生まれない。アブドルアジーズは反乱軍の討伐を決意した。かつて彼ら同胞団部隊は同じ信仰に深く結ばれた同志であり、自分の軍事力の中核であった。アブドルアジーズにとって生涯最大の苦渋の決断であった。

 

1930年、およそ3年に及んだ反乱は終息したが、アブドルアジーズにとって、同胞団の反乱は非常に辛い試練であった。

 

ヒジャーズ=ナジド王国にようやく安定と落ち着きが見えたかのようだった。しかしながら、新たな不穏の動きが起きていた。ヒジャーズを追われたシャリーフ家のフセイン一族と通じたグループが、ヒジャーズ自由党を設立し、イェメンやアシール地方も巻き込んで、ヒジャーズ各地で不満分子を蜂起させ、反乱を起こす計画を企てていた。アブドルアジーズはこの反政府勢力の動きに気がついていた。反政府勢力の反乱はことごとく未然に押さえられ、阻止された。ヒジャーズでは政党の活動が禁止され、同時にヒジャーズの独自の地位も自治も撤回されて、同一の行政制度に組み入れられることになった。

 

1932年、アブドルアジーズは国名を「サウディアラビア王国」と改称した。9月、新しい国家の誕生を記念する祝賀行事が半島の各地で催された。首都リヤードでは、サウディアラビア王国の国王及び二大聖地の守護者となったアブドルアジーズ王の即位の式典が、厳かにそしてきらびやかに催された。サウード家の権威の証しであるラハヤーンの剣を手にしたアブドルアジーズ王は、新しい王国の国章が掲げられ新しい国旗が翻るなかで、一つの国家、一つの政府、一つの国民を内外に宣言した。

 

リヤードの人びとは歓喜のどよめきをもって、この式典のときを迎えた。名高い人々が、ウラマーや将軍や、各地の指導者や、諸外国の代表たちが次々と進み出て、国王に祝賀の挨拶を送った。

 

部族の枠を越えて一人の元首を戴き、一つの政権のもとに統一されたサウディアラビア王国が誕生し、いま世界に承認される存在となったのである。

 

中東の多くの国々がヨーロッパ列強に屈服し、その統治下に置かれていた時代に、アブドルアジーズ王は例を見ない統率力でアラビア半島をまとめ、従属の立場から解放したのだ。多くのムスリムはクルアーンの崇高な精神で統治されるこの新しい国に、イスラームの復活と繁栄を託した。

 

 

 

 

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」

日本サウディアラビア協会出版

 

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