Saudi Culture Japan

موقع سيرة المؤسس الملك عبدالعزيز بن عبدالرحمن آل سعود - طيب الله ثراه - باللغة اليابانية




国王のお人柄


―近代サウディアラビア建国の祖―

アブドルアジーズ国王の生涯

 

近代国家建設に捧げた生涯

 

 

1-国章の制定

子息2代国王サウード(右)、3代国王ファイサル(左)とアブドルアジーズ王

(リヤード、1951年10月)

 

西暦1932年9月22日、アブドルアジーズ王が、ヒジャーズ=ナジド複合王国を「サウディアラビア王国」の名の下に統合したことは、一国の元首としての彼のなみなみならぬ自信のほどを示すものであった。その名、アル・マムラカ アル・アラビーヤ アッサウーディーヤは「サウード家のアラビア王国」を意味し、サウード家が厳然と君臨し支配・統治する王国であることを内外に誇示するものであった。

 

鍛え抜かれた体格と強靭な意志を兼ねそなえたアブドルアジーズも、この時すでに50代なかばとなり、慢性の眼病で左目はほとんど視力を失っていた。戦闘での古傷で膝も不自由になっていた。1902年、わずか40名の手兵を率いてラシード家からリヤードを奪還して以来、早くも30年の歳月が流れていた。思えば戦いに次ぐ戦いの半生であった。「アラビア半島の王」として君臨することがアッラーから与えられた使命と信じ、その実現のために領土を拡張してきたのであった。

 

1904年にはリヤード北方にラシード軍を撃破してオナイザを攻略した。1906年には、やはりラシード家の手からブライダを奪った。1919年、最愛の妻ジャウハラ、20歳になった息子トルキー、さらに2人の息子が、世界中に猛威を振るったインフルエンザの犠牲となった。悲報は、アブドルアジーズがマッカ東方のホルマでヒジャーズ軍と対峙していた時に届けられた。彼の生涯を通じて最も悲しい試練の年であった。その間、アラビア半島の中部や東部からのオスマントルコ勢力の撤退も実現させた。1921年にはラシード家を滅ぼしてハーイルを掌中におさめた。1922年、北部のジョウフも攻略して支配下におさめた。1925年末にはヒジャーズを支配していたシャリーフ家を滅亡させ、翌年初めにアブドルアジーズがヒジャーズ王国の王となった。1930年、かつては彼の王権拡張のために献身的な貢献をした同胞団の反乱も鎮圧した。そしてこの度の国名改称により、アブドルアジーズは名実ともに広大なアラビア半島の大部分を占める王国の支配者となったのであった。

国章“繁栄は正義によってのみ達成される”の意味が込められている

 

アブドルアジーズ王は、自らが営々として築き上げた王国を象徴する紋章を定めた。まず、30年にわたる奮戦力闘に彩られた王国への道程を、交叉する二振りの剣により表象した。次にアブドルアジーズは、この十字の剣の上に、図案化したナツメヤシを据えた。彼の半島統一の覇業は、同胞団の協力のたまものであった。にもかかわらず、彼が敢えてアラビア半島の象徴的な風景であるベドウィンやラクダをデザインとして用いなかったのは、近年になって同胞団がアブドルアジーズに離反したからであった。1930年、サビッラにおいて同胞団反乱軍を制圧したのも、彼の領土拡張が終焉を迎えたことを意味していた。今や彼がサウード家による支配の確立と維持のために必要不可欠と判断したのは、サウード家の出自がそうであったように、定住民を優先的に考えることであった。国章のデザインに彼が選んだナツメヤシは、オアシス定住民の樹木であったのである。

 

 第一次世界大戦後の世界は急速かつ大きく動いていた。つい数年前までアラビア半島に兵を駐屯させていたオスマントルコはすでに地球上から消滅し、その領土もアナトリア以外は列強により分割されていた。アブドルアジーズ王が着手すべき緊要の課題は、イスラームの聖地マッカを抱えることとなったサウディアラビアを、イスラーム世界の盟主としての地位を保ちつつ、西欧文明の利器や制度の長所を活用して、列強に伍するに足る強力な近代国家に育て上げることであった。

 

2-近代国家への基礎固め

アブドルアジーズが自ら君臨する国土をサウディアラビア王国と命名した時、その領域は、東西20経度、南北16緯度の範囲を占めるまでに広がっていた。これを分かりやすくいうと、東西は鹿児島から遥か南支那海に浮かぶ海南島まで、南北は鹿児島からマニラまでの距離にほぼ匹敵する。その面積は215万平方キロメートル、西ヨーロッパ全体の面積にほぼ等しく、その大部分は荒涼たる砂漠と人跡未踏の山岳地帯である。通信・交通手段の極度に発達した今日からは想像もつかない、まだ、砂漠の船ラクダが唯一の交通・運輸・通信手段であった時代である。そのような状況下ではあったが、領土の全域に彼の支配や指令が均等に及ぶような政治組織と体制を一刻も早く構築しなければ、国際社会の一員としての認知を得ることができないことを、アブドルアジーズはよく知っていた。

 

今日でいう社会資本とか経済基盤(インフラストラクチャー)は勿論のこと、病院、学校なども無きに等しかったこの国が近代国家としての体裁を整えるには、すべて白紙からのスタートをしなければならなかった。国民はといえば、部族単位で自由奔放に移動する遊牧民が大半を占め、国境についての認識すらもたず、ましてや国家という概念も国民としての自覚もなかった。アブドルアジーズ王がこの広漠たる国土と有史以来の自由奔放な遊牧民を、近代的意味における国家建設に誘導して行くことは、前途遼遠にして至難の大事業であった。

 

アブドルアジーズ王が壮大な国造りの理想を実現するために必要な財源は、わずかに聖地マッカへの巡礼者から徴収する巡礼税に頼るしかなかった。ノウハウ、人材も皆無であった。王自身が敬虔なムスリムであり、サラフィー運動を統治理念に掲げて統一に漕ぎつけたサウディアラビアの近代化には、国民にイスラームの規律の遵守を徹底させるとともに、彼らに近代的な知識や技能をつけさせる、新しい教育制度を確立することが何にもまして急務であった。青年期以来、英国との緊密な関係から、西欧文明の技術や利器である飛行機、艦船、鉄砲、自動車、電話、無線、ラジオ、写真などに親しんでいたアブドルアジーズは、保守的な宗教指導層の反対を押し切っても、国の近代化のためには、先進技術の積極的導入が不可欠であると考えていた。

 

1938年に発見された石油は、第二次世界大戦後に本格的商業生産に入り、この国の豊かな財源となった。この世界大戦以前に国際社会のメンバーとして認められたサウディアラビアが、戦後は、石油歳入によって国力を増大させ、世界の政治、経済に大きな影響力をもつ国にのし上がるのである。巨大な油田のもたらす石油収入は、財源難に頭を痛めていたアブドルアジーズ王が夢想だにしなかった天恵以外の何ものでもなかったのである。

 

3-イェメンとの和約

1934年の春、アブドルアジーズ王は二人の息子、サウード王子とファイサル王子をイェメンに侵攻させた。これがアブドルアジーズ王にとって他国との最後の戦いとなった。この戦争でアブドルアジーズは無線通信を採用し、それが真価を発揮したことはこの国の近代化を方向づける画期的な出来事であった。

 

現在でもサウディアラビアとイェメンとの国境は明確でないが、アブドルアジーズの頃はさらに漠然としていて、かねてよりイェメンは虎視眈々とすぐ北側にある南アシールとナジュラーンの領有を狙っていた。これらの地方は双方が領有を主張しながら、実際には統治していない、いわば中立地帯のような地域であった。

 

第一次大戦後、イェメンはイマーム・ヤヒヤーが支配しており、相も変わらずアシールとナジュラーンの併合を企てていた。1925年、ヤヒヤーはアブドルアジーズがヒジャーズのシャリーフ家と戦っていた隙に乗じてナジュラーンに侵入してこれを占領した。アブドルアジーズは息子サウードをナジュラーンに差し向けてこれを奪回、交渉によってイェメンとの国境を定めようとしたが決着をみず、その後も1932年にイェメン軍がこれらの地方に侵入した。アブドルアジーズは軍隊を派遣してイェメン軍をナジュラーンから撃退したが、アシールの方はヤヒヤーに煽動された地元民ゲリラが山岳地帯で反サウード王国の行動を展開して混沌状態が続いていた。

 

アブドルアジーズ王は交渉による平和的解決をイマーム・ヤヒヤーに求めたが、ヤヒヤーは話し合いに応じなかった。そこで王はサウード王子とファイサル王子の軍にイェメンへの進撃態勢をとらせ、ヤヒヤーに対して1934年4月5日までに交渉に応じない場合はサウード軍をイェメンに侵攻させるとの最後通牒を送った。

 

二人の王子には無線通信装置を装備させ、4月5日の当日になって王から特に指令がなければ即刻国境を越えよとの指示をした。当日、王から特別の指令は来なかった。実は、王は「軍事行動を延期せよ」の指示を発信したが、激しい砂嵐に電波が妨げられて両軍に届かなかったのであった。両軍は進撃を開始した。アシール山地を進んで敵の要都サヌアに向かったサウード王子の軍は険しい山岳地帯と執拗なゲリラの抵抗に阻まれて難渋を極めた。平坦な砂漠での戦闘に慣れた兵員が急峻な崖をよじ登り、切り立った岩の上を行進することは極度に困難な行動であった。一方、ティハーマ海岸を南下したファイサル王子の軍は順調にイェメン領内に入って紅海岸の港町ホデイダを占領した。

 

この時、両王子は父王アブドルアジーズから「前進を停止せよ」との無線連絡を受けた。サウードはナジュラーンに、ファイサルはホデイダに軍を駐留させた。ホデイダに達したファイサルにとっても山岳地のサヌアも、英国植民地アデンも至近距離にあった。しかし王のこの指示は重要な意味を持っていた。当時、イェメンは欧州列強の戦略の上で喉から手が出るほど欲しい拠点であった。とりわけムッソリーニ政権下でエチオピアの占領を企てていたイタリアは、対岸のイェメンも確保しておきたかった。また、アデンはすでに1902年以来、英国の植民地であり、その周辺のアデン保護領も実質は英国の領土であった。イェメンでの不測の事態を恐れた英、仏、伊はホデイダに艦艇を急行させた。

 

もし、アブドルアジーズ王が王子たちに前進停止の指令を無線で伝えなければ、両軍は交戦により味方にも敵にも無用の犠牲を出したであろうし、また、介入した列強と無意味な対立を生じたであろうことを考えると、意思の迅速な伝達を可能とする無線の果たした役割は大きかった。実際、英、仏、伊はアラブの調停団とともに調停に乗り出し、ターイフで交渉の結果、イマーム・ヤヒヤーはアシール地方領有の野望を放棄し、翌1934年5月締結の講和条約でナジュラーン、アシール、ジーザーンがサウディアラビア領土であることを認め、イェメン派兵に要した費用の一部賠償金10万ポンドをアブドルアジーズに支払うことを約した。勝利したアブドルアジーズ王が領土拡張の野望を持たず、現状維持にとどめただけでイェメンの併合を要求せず、賠償金支払いについても寛大で控えめな条件で妥結したことはアラブ世界で高い評価を得た。

 

この戦争で痛感されたことは、近代的な大型車両による兵員や武器弾薬の輸送を可能にする道路網整備の必要性であった。

 

4-石油時代の幕開け

アブドルアジーズがサウディアラビア王国の建国を宣言した1932年は、1929年から1934年までの5年間にわたって全世界を襲った大恐慌の真っただ中にあった。

 

恐慌とは、過剰生産、倒産、価格の暴落、失業の増大などによる資本主義経済に固有の混乱状態をいう。第一次大戦後、米国産業界においてはベルトコンベア・システムの採用や生産の機械化の発達のため多数の労働者が失業して労働者数が減少したうえ、労働賃金が抑制されていたため国民の購買力が衰弱して、大量の滞貨が発生していた。さらに農業においても、労働人口の減少で食糧需要が伸びず、農産物も供給過剰となっていた。失業者の群が巷に溢れ、政治・社会不安は深刻化し、混乱の極に至る一触即発の危機をはらんでいた。

 

折しも1929年10月24日、ウォール街で株価が大暴落したのが引き金となり、恐慌はまたたく間に米国の全産業部門を襲い、さらに全世界の資本主義諸国に波及する未曾有の大恐慌となった。物価は下落して工業生産や貿易は著しく落ち込み、銀行や企業の倒産と失業者の続出で、世界は空前の不景気状態に陥った。この大恐慌は以後5年余り続き、その間に世界情勢に著しい変化をもたらした。

 

英、米、仏など先進資本主義国はこれまでの自由貿易を放棄して保護貿易政策に転じたり、本国と植民地を結ぶ経済ブロックをつくって、その内部での自給自足経済、いわゆるアウタルキーを営むようになった。一方、有力な植民地・市場や物資自給力をもたざる後進資本主義国の日、独、伊などは、他国への侵略と強制による広域経済圏を建設する動きの中からファシズム勢力が台頭し「持たざる国」の「持てる国」に対する敵対関係が進行していった。

 

大恐慌はサウディアラビアにも多大の影響を及ぼした。かつては外の世界で起こることが広大なアラビア半島の中央部にまで波及して来ることはなかった。ところがアブドルアジーズがヒジャーズ地方を掌握・併合した1926年を境として、この国も権謀術数渦巻く国際関係の風浪の中に巻き込まれるようになり、アブドルアジーズも国際社会の動向を自分の国の発展と安全保障に密接に関係するものとして注意深く観察するようになっていた。サウディアラビアは世界の大恐慌と無縁ではいられず、国外からのマッカ巡礼者が激減するという大打撃をこうむった。1920年代の多い年には13万、少ない年でも10万を数えた巡礼者が1930年には5万、1931年には4万足らずに減少したのである。

 

第一次世界大戦当時、アブドルアジーズの支配するナジドの歳入、それもナツメヤシしかないこの地方が得ていた収入は、英ポンド換算でわずかに16万ポンドに過ぎなかった。これに対してマッカを擁するヒジャーズ地方は同時期に、100万ポンドを優に越える歳入を得ていた。1926年にヒジャーズ地方を併合したアブドルアジーズが、1930年に同胞団の反乱を鎮圧できたのは、彼らが「不信心者の発明品」と呼ぶ西欧文明の所産である鉄砲、弾薬、自動車、電話、無線機器などを購入できる資金を持っていたからであった。

 

同胞団を鎮圧した今、アブドルアジーズは、政治的にも経済的にも黎明期にあったこの国の政治体制の整備と国土の近代化に専念しなければならなかった。それにはどうしても「不信心者の発明品」が大量に必要であり、それらを購入するには厖大な資金を必要とした。ところがこの国の経済は依然として牧畜と限られた場所での自給的農業の上に成り立っており、人口のほぼ半数が農民であったので、国庫収入はマッカ巡礼者から徴収する巡礼税と関税に頼らざるを得なかった。その巡礼税の収入が激減したのである。アブドルアジーズ王の近代国家構築の事業計画は崩壊の危機にさらされた。同胞団の反乱という厳しい試練を乗り切ったばかりのアブドルアジーズは、一難去ってまた一難の苦境に立たされたのである。

 

アブドルアジーズ王に天恵がもたらされたのはこのときであった。アッラーに絶対的に帰依服従し、アッラーを信頼し、国土統一の大事業をアッラーへの道と信ずる者の窮状をアッラーは決してお見逃しにはならなかった。アブドルアジーズがアッラーに寄せる信頼にアッラーはお応えになり、彼の近代国家構築の事業のために援助の手をさしのべられたのである。それが石油の発見であった。

 

アブドルアジーズ王が、国土統一の大業を成功させて国家と呼び得る形態を整えるために最初に必要としたものは淡水であった。古来、アラビア半島では、西南部のアシール地方のごとく降雨量の多い一部の地域を除き、ほとんど全土で淡水の入手は多大の労苦を要する大仕事であり、水の一滴は血の一滴にも匹敵した。アラビア遊牧民が心に描く楽園には必ず小川が流れるほどで、水はアッラーからの贈物として砂漠の民が最大の価値を置く物質であった。アブドルアジーズ王がその国家経営の方針として考えていた民生の安定、産業の育成、遊牧民の定住化などのためには、何にも優先して水資源の確保が緊急の要務であった。

 

アブドルアジーズ王には、彼のプライベートな相談役として長年親交を結んだ植民地行政官で探検家の英国人ジョン・フィルビー(1885~1960)がいた。アブドルアジーズはフィルビーがムスリムに改宗した時、アブドッラー・フィルビーと命名した。アブドッラーはアブド(しもべ)とアッラーから成り、「アッラーのしもべ」を意味する。アッラーのしもべと呼ぶに足る敬虔なムスリムであれかしとのアブドルアジーズの願いから出たものである。

 

王はフィルビーによく、為政者として政を執らねばならぬわが身の財源の乏しさや、水資源への渇望や、いかなる地下資源でもよい、彼に地質調査の利権料をもたらす地下資源に対する切望を訴えて、「もし私に100万ポンドを提供する者があれば、彼に望み通りの利権を供与しよう」ともらすことがあった。実のところ、フィルビー自身は素人考えながら、この砂漠の国には何らかの地下資源があるのではないかと考えていたが、アブドルアジーズは10年ほど前の1923年にある大失敗をして以来、石油とか鉱物資源のことは一切考えず、ただ水だけを切望していたのである。その大失敗とは次ぎの通りである。

 

1922年にフランク・ホームズという元英国少佐が、ハサー地方の地質調査をさせて欲しいとアブドルアジーズにもちかけたことがあった。

 

ホームズはバハレインで地下水脈を探していて石油の層を発見した男で、対岸のハサーにも油層が存在するはずだと睨んでいた。すでに第一次大戦中、従来の蒸気機関に代わって馬力・利便性においてはるかにまさる内燃機関が新時代の動力装置をして脚光を浴びていた。内燃機関とはガスと空気の混合気体を気筒内で爆発燃焼させ、生じた熱エネルギーを動力に変える機関のことで、気筒内に送り込まれるガスは石油を気化したものである。石油に対する需要は日増しに増大し、数多くの石油開発会社が設立され油田を求めて凌ぎを削った。油田を発見して開発にまで操業可能な資金をもつ会社もあれば、土地所有者から利権を買い取り、これを転売して儲ける利権仲介業もあった。

 

いずれにせよ彼らが熱い視線を向けたのはアラビア湾であった。アラビア半島の地質や地殻構造についてはほとんど知られていなかったが、アングロ=パーシャン石油会社が1909年以来ペルシアで石油を生産していたほか、バハレインやクウェイトでも地表に石油の浸出が確認されていたので、アラビア湾西岸のハサーにも油層が存在するかもしれないとみられていたのである。

 

フランク・ホームズは豪州人で第一次世界大戦中、英国軍に鉱山技師として中東、インドに従軍した経験があり、戦後はイースタン・アンド・ジェネラル・シンジケートという石油利権売買会社のアラビア湾岸代表として湾岸の石油利権を探していた。このホームズが1922年12月、半島東岸のオカイルに現れたのである。オカイルはオスマントルコが築いた砦の残る廃村で、ここにアブドルアジーズが英国高等弁務官サー・パーシー・コックスをバグダードから招いて会談していた。この会談で彼のナジドとイラク、およびナジドとクウェイトの間の国境が確定された。この取り決めが「オカイル協定」と呼ばれる議定書で、その顕著な特徴は、遊牧民が自由に出入りできるようナジドとイラク、ナジドとクウェイトの間にそれぞれ中立地帯を設けたことであった。

 

こともあろうにホームズはデリケートな政治交渉の場に現れ、アブドルアジーズ側、コックス側双方のキャンプの間に自分のテントを張って、直接アブドルアジーズにハサーの探査権供与を申し入れたのである。ホームズは一週間我慢づよくオカイルに野営したが、結局アブドルアジーズから確答を得ることができず、バグダードに引き揚げた。

 

ところが翌1923年、ホームズは再びアブドルアジーズを訪ねて来た。ホームズの申し出では、ハサーの石油探査権および石油の存在が確認された場合の探掘権の対価として年間2,000ポンドを金で支払うというものであった。

 

アブドルアジーズはハサーの砂漠の下に石油があるとは少しも思っていなかった。だからこそ彼の決定は早かった。年間わずか2,000ポンドというホームズのオファーを受け入れたのだ。実のところ、ありもしない石油を求めて無駄な探査をする者からいくら利権料をとればよいかの見当もつかなかった。もし彼がそこに油田存在の可能性ありと確信していたなら、もっとじっくりと時間をかけて、もっと良い条件の提示者に利権を供与したはずである。ところがその時、アブドルアジーズが第一次大戦後毎年英国から受け取っていた年間6万ポンドの援助資金打ち切りの通告があったのだ。つい先年の1920年に西南部のアシールを陥とし、また、北方のハーイルを征服してラシード家を滅ぼしてこのかた、彼の支配する領土は拡大したが、それは彼に忠誠を誓う部族長の増加を意味し、この忠誠心に対する彼の支払額は倍増し、彼の財布は底をついていた。そこへ英国からの援助打ち切り通告である。今や些少でも喉から手の出るほど金が欲しかったアブドルアジーズはホームズにただ同然の金額でハサーの石油探査権を譲渡したのであった。

 

ホームズの所属するイースタン・アンド・ジェネラル・シンジケートは早速ハサー地方に地質技師を派遣して調査に当たらせたが、ここでは石油の痕跡すら確認することができなかった。そこでシンジケートはこの利権を転売しようとしたが、いずれの石油会社も一顧だにしなかった。シンジケートは最初の2年間は利権料を払ったが、そのあとの3年間は支払いを履行せず、結局この利権は無効となった。

 

フィルビーはアブドルアジーズ王の信頼に応え、常に親身になって王の利益になるよう心を砕いていた。誰かこの王の助けになる人物はいないかと考えた末、フィルビーが思い付いた人物は、第一次世界大戦後のオスマントルコ領分割問題調査委員会でウイルソン大統領の特使をつとめたことのある実業家チャールズ・クレインであった。アラブ世界に魅せられた文化人であり慈善事業家であったクレインは、すでにイェメンに港、橋、道路などを提供していた。このクレインこそが、サウディアラビアを世界に冠たる産油国へと導く大油田発見を媒介した人であった。

 

アブドルアジーズの要請に応じてクレインは1931年2月にジェッダへやって来た。アブドルアジーズが会った初めてのアメリカ人であった。アブドルアジーズが求めていた100万ポンドを持っては来なかったが、彼はアブドルアジーズに「ここには何らかの地下資源があるかも知れません。よしんば水だけだとしても、地質調査をするだけの価値がありましょう」と言い、6ヶ月間の地質調査を無償で引き受けることを申し出た。この申し出はアブドルアジーズにもジェッダの有力者たちにも、クレインが必ずジェッダに水をもたらしてくれるとの期待をもたせた。

 

米国に帰ったクレインは同年4月、探鉱技師カール・トウィッチェルをサウディアラビアに派遣した。イェメンやエチオピアなどで調査の経験をもつトウィッチェルは、クレインに指示された通り、ジェッダ周辺に水資源が存在するかどうかを調べたが、彼はその可能性は少なく農業も不可能と判断した。次いで彼はマディーナの南東方にあってソロモン王が所有していたといわれる伝説的な金鉱マハド・アッザハブを調査し、同年11月には東部のハサーに赴き、翌32年初頭にかけて一帯を調べて回ったが、石油の存在を示唆する材料を見付けることができず、リヤードに戻って来た。ただトウィッチェルは対岸のバハレインでソーカル(スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア)の子会社バプコ(バハレイン・ペトロリアム・カンパニー)が行なっている石油探鉱作業に強い関心を寄せていた。バハレインの利権は1925年にホームズが手に入れ、1927年にガルフ石油に転売し、ガルフがさらにソーカルに転売したものであった。

 

トウィッチェルから、ジェッダ周辺に水資源はないとの報告を受けた時、アブドルアジーズもジェッダの有力者たちも失望したが、他の地下資源の兆候の有無を尋ねた。トウィッチェルは紅海沿岸で何箇所かの石油の地表兆候を目撃し、マハド・アッザハブの古代金鉱についても採鉱可能と判断していたが、技師としての慎重さから明言を避けて、さらに調査する必要があると答えた。事ここに至ってアブドルアジーズは王国の近代化プロジェクトをほとんど断念せざるを得ない状況に立ち至った。彼が常々配下として見ていた小国クウェイトやバハレインの首長たちが不相応な額の利権料を手に入れているのにひきかえ、自分は何も得ないで貧困の極にある。

 

1923年に英国からの年間6万ポンドの援助金が打ち切られて以来、それまでに半島平定のために購入した武器や車両の代金の支払いに追われて国庫は底をついた。そこへ大恐慌でマッカ巡礼者が激減、巡礼税収も激減した。資金不足で統治の確立すら危うくなっている。私に金を持って来てくれる会社はないものか…。強い焦燥に駆られた彼はトウィッチェルに相談した。技術者として冷静なトウィッチェルは自信をもって、「もしバハレインで油田が発見されたら、地質学的に同様のハサーでも必ず出ます。陛下、バハレインの結果が出るまで待ちましょう」と言うのであった。バハレインで探鉱していたソーカルやバプコの石油技術者たちも全く同じこと、つまり、バハレインで油田が発見されればすぐ対岸のハサーにも油層があるはずだと考えていた。

 

1932年6月、バプコは石油を掘り当てた。初めてアラビア湾西岸で石油が発見されたのである。いよいよハサーでの油田の存在が有望となった。早速ソーカルはフランク・ホームズを通じてアブドルアジーズ王とハサーの利権譲渡の交渉に入ろうとしたが、アブドルアジーズ王がすでにトウィッチェルにハサーでの石油探鉱・生産に意欲的な会社を探すよう依頼していたことが判明したので、ソーカルはトウィッチェルに同社の技術顧問を委嘱した。次いでソーカルはフィルビーとコンサルタント契約を結び、1933年2月、法律顧問のロイド・ハミルトンと技術顧問のトウィッチェル、およびコンサルタントのフィルビーをジェッダでの利権交渉に臨ませた。次に来たのはイラク石油(旧アングロ=パーシャン石油)、さらに10年前アブドルアジーズからハサーの探査権を獲得していながら利権料を滞納して利権を無効にした例のフランク・ホームズがやって来た。アブドルアジーズ王はあの時の苦い経験を忘れてはいなかった。あの時、財政は困窮を極めていたにもかかわらず、ホームズ所属のシンジケートから利権料を受け取ったのは最初の2年だけだった。シンジケートにはあとの3年分6,000ポンドの貸しがある。財政の窮迫はあれ以来なにも変わっていない。もうあの時の二の舞は踏むまい…。

 

サウディ側交渉団はアブドルアジーズ王の右腕として国庫の管理に敏腕を発揮した財政相アブドッラー・スライマーンを長としていた。ペルシアやイラクにおける石油利権交渉で政府側が勝ちとった最良の条件について調査し熟知していたので、ハサー地方の利権の譲渡にあたってはサウディアラビアもそれに勝るとも劣らぬ有利な条件を引き出さねばならないと、なみなみならぬ決意のほどを見せていた。

 

利権交渉をすすめるにあたり、サウディ政府側は応礼者に対し、利権の落札者が調印と同時に10万ポンドを金で前払いすることを探鉱の前提条件とした。この桁外れの金額に驚いたフランク・ホームズは即刻交渉の場を立ち去った。ホームズは金10万ポンドという額に恐れをなしただけでなく、アブドルアジーズから利権料の不払い3年分を要求されるのではないかと恐れていたのである。次にイラク石油であるが、すでにイラクに潤沢な油田を保有するこの会社は、ハサーで石油が生産された場合に生ずる生産過剰と石油価格の下落を恐れるあまり、ハサーには石油はない、たとえ発見されても有望な油層ではないと盛んに言いふらし、とにかくソーカルをこの交渉から締め出そうとしていた。ソーカルを締め出すだけの目的で交渉団をジェッダに派遣したイラク石油は、始めからハサーの利権には関心がなく、交渉に深入りしない姿勢を保ち、アブドルアジーズの金10万ポンドの要求に対してインド・ルピーで1万ポンド相当額を主張した。結局、金で5万ポンド以上を支払う用意のあるソーカルにハサーの利権が譲渡されることになった。

 

こうして1933年5月29日、ソーカルは期間60年の利権を獲得した。ハサーだけでなく、アブドルアジーズの広大な領土の調査・探鉱についても優先権が認められた。支払い内容は調印と同時に3万ポンド、18カ月後に2万ポンド、毎年5,000ポンドのレンタル、さらに商業生産量発見の際に5万ポンドを2回、生産原油1トン当たり4シリングのロイヤルティーであった。また、政府側から見ても、有望な油層が確認された場合はただちに開発・掘削に着手することと、製油所を建設することを義務付ける条項が利権協定に盛り込まれたことは画期的な意味をもつものであった。アブドルアジーズが米国の会社に利権を譲渡したのは、支払い条件で同意に達したためだけではなかった。彼は、国の政策が強く反映される英国の石油会社より、企業としての自主独立性が強く、政府からの影響を受けない米国の会社を選んだのであった。

 

5-石油の生産と第二次世界大戦

砂漠の酷暑が多少とも和らいだ1933年9月、ソーカルの地質技師たちはバハレインからダウ船でジュベイルに到着、技術顧問トウィッチェルも加わってただちにジュベイル南方にある丘ジュベイル・バッリの周辺を調査した。続いて、現在ダハラーンのキング・ファハド石油鉱物大学が建っている高台、ジャバル・ダハラーンを調査した。このジャバル・ダハラーンこそは、バハレインで油田を掘り当てたソーカルやバプコの石油技師たちが毎日遠望しつつ油層の存在を確信していた高台であった。バハレインから海を隔てて50キロの西方に望まれる、黄色の延々と続く細い線がアラビア半島の海岸線であった。夕暮れ時には、その線上に盛り上がって見える台地が落日に映え、典型的な背斜構造のシルエットを浮かび上がらせるのであった。

 

背斜構造とは、堆積当時水平であった地層が地殻変動によって強い圧力を受けると波状に曲がり(この現象を褶曲という)、山の部分と谷の部分ができるが、この山の部分すなわち伏せた椀のような形の部分をいう。谷の部分は向斜と呼ばれる。石油は背斜構造の内部で、頁岩など石油を通さない地層にはさまれた、孔隙性のある砂岩や石灰岩の層内に貯留される。小島バハレインで働く油田技術者にとって、無限の広がりを見せるアラビア半島にある、この背斜構造はまさに垂涎の的であった。調査の結果、ダハラーン一帯にかなり広範な油層が存在する可能性ありとの結論に達し、この背斜構造をダンマーム・ドームと呼ぶこととなった。

 

地質調査には自動車を駆使する一方で飛行機の使用許可も申請した。自動車は、英国がエジプトでの軍用に開発したサンドタイヤを着けて、砂漠を移動した。このタイヤは砂の中に埋もれないよう大型で、柔らかく広がるように空気圧を低めにして使用する。ラクダの足の裏の肉が砂漠に適応した結果、座布団のように厚く面積も広くなっていることからヒントを得て製造されたもので、このタイヤのお陰で、無線装置や発電装置を搭載したトラック、飲料水のタンクローリー、厨房や冷蔵トラック、実験室や空調つき居住を牽引したトレーラーなどの大型車がコンボイを組んで、広漠たる「虚無の地域」ルブウルハーリーの真っただ中を移動して調査することができた。

 

1934年3月、飛行機の使用許可が下りて空からの調査が開始されると、上空と地上との無線交信によって調査の精度は密となり、範囲も大幅に拡大し、作業能率も著しく向上した。陸空の連携プレーは、陸上のチームが土を掘って地上に大きな矢印を描き、それにガソリンを撒いて燃やすと黒いマークが残る。上空からこの矢印にしたがって飛行しながら写真撮影するという具合に行なわれた。

 

調査の目的はアラビア半島の地層の褶曲の様子を調べ、背斜構造を探すことにあった。褶曲そのものは珍しいものではないが、砂漠では褶曲があっても、往々にして新しい平らな地層や砂で覆われており、発見がなかなか難しい。ダンマーム・ドームと名付けられた背斜構造は、幸いにもダハラーンの高台が目印になり、その下部にバハレイン層と呼ばれる含油層がバハレインから拡がって存在することがわかったが、この含油層がどの範囲に広がっているのかが、技術スタッフの関心の的であった。通常、褶曲した地層が下降する場合はどこかで再び上昇するので、技術陣はこのバハレイン層が地表に露頭するとすれば、それはリヤード近辺であろうと予測していた。ところがリヤードは利権区域の外にあり、調査を許されていなかった。ともかく地質技師にとってはバハレイン層の拡がりを確定する目安として、その上に横たわるキャップ・ロックという岩石層を見付けることが先決であった。技師たちはのちに、しかも偶然に、バハレイン層がリヤードの近くまで伸びていることを決定づける大発見をするのである。

 

ソーカルは操業会社カソック(California Arabian Standard Oil Co.:略称Casoc)を設立してこれにサウディアラビアの利権を譲渡した。このカソックがアラムコ(Arabian American Oil Co.:略称Aramco)の前進である。1935年始め、第1号井掘削の位置が定められ、同年4月、掘削が開始された。フローテストの結果この油井は日産100バレルの出油能力しかないことが判明した。アメリカ国内で日産100バレルなら十分に採算のとれる油井であるが、遠く離れたサウディアラビアでこの量は商業生産量と呼ぶには程遠い。結局この油井は、他の油井を掘削する際の動力源や現場での生活燃料として、浅層からガスを取るガス井として仕上げられた。1936年2月に掘削の始まった第2号井は最初は日産3,840バレルを示したが、たちまち石油よりも水の方が多量に出てきたので封鎖された。続いて掘削された4本もすべて空井戸であった。カソックのスタッフに焦りが見え始めた。1936年12月、捲土重来を期して第7号井の掘削が始まった。作業は逸泥や崩落、ビットの坑内スタックなどトラブルの連続で、10ヶ月を経過しても3,300フィートしか掘進できず油兆もなかった。第7号井も空井戸として放棄されようとしていた。

 

油田発見の朗報が来ぬまま、利権協定調印後すでに4年半が過ぎていた。石油開発に技術的な関心を持ってはいなかったアブドルアジーズは、やはりこの砂漠の地下には石油は存在しないのだと思い始めていた。もし石油のないことが判明しても彼はとくに驚くに値しないことだと思っていた。会社の方も、これまでの掘削でわずかながら石油の兆候をみたことをアブドルアジーズに報告をしていなかった。実のところ、アブドルアジーズの関心は石油よりも水層の発見にあったのである。

 

アブドルアジーズはカソックの技術者に水層の調査を依頼していた。彼らはこれまでにも王の要請に応えて何本もの水井戸を掘ったことがあった。今回の要請はリヤード南西数マイル地点にあるアイン・ヒースという洞窟の地下水層の調査であった。この洞窟内の地下水は古くからその存在が知られており、35年前の1902年、アブドルアジーズが40名の勇兵とともにリヤードを奪還した際にも、ここでラクダに水を飲ませたことがあった。洞窟の屋根にあたる部分は風化により決壊しているので、その内部の地下150フィートの深さにある水には容易に接近できる。技師たちはその底に満々と湛えられた水面まで降りて行った。

 

その時である、彼らがバハレイン層の上に横たわるキャップ・ロックに酷似した岩石層の露頭を発見したのは。キャップ・ロックとは、伏せた椀の形状をした背斜構造の頂部を覆う岩石層で、それが硬石膏など石油を通さない不浸透性の岩石の場合、内部に石油が捕捉貯留される。

 

技師たちは息をのんだ。互いに400キロも離れたバハレインとリヤードに類似の層が存在するということは、同じ一つの層がこれら2地点間の地下にも広がって存在する可能性があることを意味する。とすればバハレイン=リヤード間のどこかで有望な油層を掘り当てることができるかも知れない…。ダンマーム・ドームだけでなく、サウディアラビア東部一帯にも石油を貯留する地層構造が存在する可能性は、かねてから技術陣が予測を立てていたが、リヤードにおけるキャップ・ロックの発見によってそれが立証されたのである。

 

バハレイン層は西に向かって深くもぐり込んでいるのではないか。掘削中の第7号井をさらに掘り進めば含油層に遭遇するかも知れない…。第7号井の掘削が再開された。1937年末、第7号井は4,500フィートあたりでガス層に遭遇したが、なおも掘削を続けてアラブ層と称する地層まで掘り進み、遂に1938年3月、4,727フィートに達した時、原油が高圧で噴出した。商業生産を可能ならしめる極めて有望な油層の発見であった。沈鬱な空気は吹き飛んだ。会社はアブドルアジーズに商業量発見を報告し、約束の5万ポンドを金で支払った。

第7号井を視察するアブドルアジーズ王(ダハラーン、1939年5月)

 

ダンマーム7号井を転機に事業は拡大した。増加するスタッフや家族の住宅の建設、桟橋やパイプライン、貯油タンクやスタビライザー(原油に含まれる有毒硫酸ガスを除去する装置)、製油所や搬出施設など、莫大な資金が必要となった。そのためにはより多くの生産井を確保して生産規模の大幅な拡大を行う必要があった。1938年末には大規模な構造調査井の掘削計画が立てられ、カソックの誰もが夢と希望に満ち溢れていた。

 

ダンマーム・ドーム出油のニュースは世界を駆け巡り、翌1939年になると英国、ドイツ、オランダ、アルメニア、ソ連、日本などから続々と交渉団がリヤードを訪問、アブドルアジーズ王に面会を求めて門前市を成すほどであった。競争相手を排除して、さらに広範な地域での開発権を確保したいカソックにとり、何はともあれ現時点での存在意義を顕示することが必要であった。それにはアブドルアジーズ王に石油操業の現場を視察してもらうことが最も効果的である。おりしもラス・タヌーラからの原油積出し開始の態勢が整った。

 

1939年4月末、招待を受けたアブドルアジーズ王がリヤードから到着した。500台の車に分乗、大キャラバンを組んでやって来た王の一行2,000人はダハラーンの近くにテント村を設営した。第一船搬出の祝賀行事が盛大に行われ、王は現場施設を視察した。油井の掘削機を見るのも、パイプラインを見るのも、タンカーを見るのも初めてであった。王はラス・タヌーラに来港した最初のタンカー、スコフィールド号8,000トンの船上で食事をとった。いよいよ5月1日、王の手によってバルブが開かれ、この瞬間、サウディ原油は海外に向かって流れ始めたのであった。祝賀行事の一部始終は映画フィルムに収められ、何千枚という写真が撮影された。

最初の石油積出しタンカー スコフィールド号を視察中のアブドルアジーズ王

(ラス・タヌーラ港、1939年5月)

 

この時までにカソックは、利権協定調印と同時に支払った3万5,000ポンドを始めとして、その18カ月後に2万ポンド、レンタル6年分3万ポンド、商業量発見時に5万ポンド、その1年後に再び5万ポンド、生産原油のロイヤルティー1トン当たり4シリングの合計約20万ポンドを王に金で支払っていた。アブドルアジーズ王の財源は少しづつ潤い始めた。こうしてサウディアラビアは世界市場へのアクセスを確保し、富と物質的快適さに満ちた明るい未来を謳歌するかに見えた。

 

一方、アブドルアジーズ王の現場視察はカソックにとっても新たな局面を開くこととなった。王はダハラーン滞在中、カソックの利権地域の拡大を認めることを示唆したのである。王の意向はただちに実現し、同じ5月の末、原協定地域の北部分および南部分をそれぞれ西方に拡大した地域でカソックの操業を許可し、さらに2箇所ある中立地帯のサウディ側権益分についても同社の操業権を認める追加協定が調印された。かねてから広範な地質調査を通じて開発規模の拡張を望んでいたカソックに、大きな飛躍の可能性が約束されたのであった。

 

それから4カ月のちの1939年9月1日、ヒトラーのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発した。タンカーの航行は危険となって国際石油市場は崩壊し、緒に就いたばかりのサウディアラビアの石油生産は急停止を余儀なくされた。アブドルアジーズ王やカソックがこの新しい富の源を活用する機会に恵まれるのは、やっと戦後になってからであった。

 

6-第二次世界大戦中の窮状

1938年3月、商業生産可能な石油埋蔵量が確認されたが、送油ラインの敷設や搬出施設の建設には多くの時間を要するため、ただちに石油収入が入って来るわけではなかった。商業量発見により利権協定に従って手にした約20万ポンドも、彼の壮大な近代化政策の前には焼け石に水同然で、アブドルアジーズは相変わらず資金難に苦しんでいた。

 

英国はアブドルアジーズと成長しつつある彼の国への支援の必要性をよく認識していたが、アラビア半島の周囲のほとんど全域に戦略的要衝を維持しなければならなかったので財政的に逼迫していた。英国の懸念は、ファシスト独裁の侵略戦争でエチオピアを占領した(1936年)イタリアがアブドルアジーズに財政援助を提供し、引き替えにサウディアラビアに橋頭堡を築くのではないかという恐れであった。

 

イタリアは紅海に艦艇を配備し、潜水艦を出没させる不気味な動きで英国艦船の航行を脅かし、英国の戦略関係者を悩ませていた。その一方でイェメンに接近し親イタリア派を支援して反サウディアラビア運動を展開させる動きも見せていた。もし紛争に発展した場合、英国は条約上必然的にサウディアラビアを防衛してやらねばならない。英国は厄介な問題に巻き込まれないよう切望した。

 

当時の中東は列強が足場を求めて鎬を削り、複雑な利害の絡み合いや権謀術数渦巻く地域であった。アブドルアジーズはこの複雑な動きに巻き込まれずに、この状況を成長過程にある自分の国の国土の整備と近代化に利用しうる立場にあった。彼は枢軸国とも条約を結んだ。ムッソリーニのイタリアと武器の取り引き契約を結ぶ一方、1939年1月にはヒトラーのナチス・ドイツとも国交を開き、ドイツ製ライフル銃4,000挺と弾薬の購入、リヤード郊外に武器製造工場の建設などの契約を結んだ。さらに極東の枢軸国日本とも1939年4月に通商友好条約を結んでいる。

 

この時アブドルアジーズに謁見して10日間に及ぶ交渉をした日本使節は駐エジプト公使横山正幸であった。前年の1938年5月、東京・渋谷区大山町に完成したモスクの落成式にアブドルアジーズ王の顧問ハーフィズ・ワハバが出席した答礼というのが名目上の目的であったが、実際の目的は石油利権交渉にあった。

 

昭和期に入って急速に軍国主義へと傾斜していた日本は1933年に国際連盟を脱退、1937年独・伊の枢軸に参加し、大陸・南方進出と軍備充実に全力を傾注していた。軍部は国家総動員法(1938年3月成立)を発動して経済統制により民需を極限に抑え、国防国家体制の整備と侵略による領土拡張に走っていたので、石油の確保は国策を左右する緊要の課題であった。

 

そこへサウディアラビア東部のダハラーンで大油田が発見されたというニュースである。日本政府はきわめて魅力的な条件を横山に携行させてアブドルアジーズ王との交渉に臨ませた。日本側の条件は、イタリア、ドイツによって支持されたが、サウディ側が求めた条件は日本側の予想を上回る厳しいものであった。ダンマーム地区での大油田発見により、王の信望を得てサウディアラビアの石油利権問題に関わっていた米国人鉱山技師トウィッチェルは、日本側の条件の良さに疑念を抱き、王に日本の領土的野心を警戒するよう忠言し、結局、日本はサウディアラビアにおける石油利権獲得の望みを果たせず、通商友好条約のみの成立に終わった。

 

しかし、1939年9月に勃発した第二次世界大戦で日本は1941年12月に米・英に宣戦し、1943年9月にイタリアが降伏して枢軸の一角が崩れ、ドイツ、日本の降伏も時間の問題となった1945年3月、サウディアラビアは対日宣戦を布告したので、この友好通商条約は短命に終わった。

 

このサウディアラビアの対日宣戦布告は次ぎのような事情によるものであった。第一次世界大戦後の1920年に設立された国際連盟は次第に制裁機関としての機能を失い、日本、ドイツ、イタリアが脱退して全体主義的侵略に走っても手をこまねいて傍観するのみであった。そこでこれに代わって、より強制力のある平和維持機関の設立がルーズベルト、チャーチルら連合国の指導者によって提唱されていた。第二次大戦末期、勝敗の行方が明白となった時、大戦の戦勝国を原加盟国とする国際連合の設立が具体化し、この加盟条件を満たすためサウディアラビアは名目的ながら対日宣戦を布告したのであった。結局、国際連合は1945年10月に原加盟国51カ国で発足した。サウディアラビア以外の中東諸国ではエジプト、イラン、レバノン、シリア、イラクのほかトルコが原加盟国に名を連ねた。

 

7-英国の後退と米国の中東進出

第二次世界大戦は、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻から、1945年8月15日の日本の降伏までの、ドイツ・イタリア・日本の枢軸国と、米・英・仏・ソ連・中国を中心とする連合国が戦った世界戦争である。

 

大戦勃発の影響はすぐにはアラビア半島に及ばなかったが、ほどなく海上交通が危険となってマッカ巡礼者は1940年に3万2,000人に激減、石油生産も制約を受けるなど、サウディアラビアの財政を圧迫する影響が出て来た。第7号井の出油に成功したあと、アブー・ハドリーヤやアブカイクで大油田を掘り当てていたが、輸送困難と物資不足の影響を受けて、日産量は数千バレルに圧縮されていた。加えて1940年にはナジド地方が旱魃と飢餓に見舞われ、アブドルアジーズ王は、ひとり財政上の危機にとどまらず、国民の生存そのものを脅かす危機にも直面した。

 

有史以来ナジドでは旱魃や飢餓は決して特別なものではなかった。ベドウィンは旱魃のたびに飢餓に耐え、少しでも食物を持つ者や長老たちが皆に分け与え、アッラーの助けを信じて待った。しかし1940年の旱魃ではアブドルアジーズ王ですら分け与える食物もそれを買う金もなかった。彼はこれまでたびたび援助をしてくれた英国に期待した。英国とて開戦後わずか9か月でフランスが降伏した後は欧州戦線で孤立し、ドイツの間断なき攻撃で補給路を断たれて国民は飢えに苦しんでいた。

 

しかし英国はイギリス連邦の一員たるカナダから小麦や小麦粉を、インドから米をアブドルアジーズに送ったほか、エジプトからも小麦・小麦粉を調達し、自国の王立造幣局鋳造のポンド金貨やサウディ硬貨を送った。ところがアブドルアジーズのトラック隊はスペアパーツの不足とメンテナンスの不備のためにすでに機能せず、またラクダ隊も旱魃のために瀕死の状態にあり、海岸に陸揚げされたこれら援助物資を中央に輸送することができなかった。英国はカソックに輸送を依頼した。

 

大戦中の6年の長い間、サウディアラビアの経済は壊滅的な打撃を受けた。これまで中東を英国の守備範囲と見做していた米国は、政府レベルでサウディアラビアとの関係が稀薄であった。ところがサウディアラビアで1938年に世界最大の油田を掘り当てたのが米国の民間会社であったことを認識すると、米政府のサウディアラビアへの関心はにわかに高まり、サウディアラビアに対して間接的ながら救いの手を差し延べた。開戦後わずか9か月で欧州戦線で孤立した英国を援助して米国は連合国への資金、武器の供与を積極化していた。米国は英国に借款を与え、サウディアラビアはこの米国の借款を英国から、1941年に500万ポンド、1942年に1,000万ポンドを受け取って当面の財政窮迫を切り抜けることができたのであった。

 

連合国に軍需品の支援を続け、1941年に太平洋戦線で日本と交戦状態に入った米国では、自国産石油の枯渇に対する懸念が強まった。連合軍の戦争持続の石油タンク役を果たしていた米国は、当時の世界消費総量の実に63パーセント、380万バレルを来る日も来る日も国内の油田から汲み上げていたのであった。危惧を感じた米国は急遽「外国の石油を燃やそう」の政策を打ち出し、代替補給国としてのサウディアラビアの保護・支援に乗り出すことになった。サウディアラビアに梃入れして自国の国益保全と国防維持を図ろうとしたのである。

 

フランクリン・ルーズベルト大統領はサウディアラビアにおける米国の石油利権を防衛するため、武器貸与法をサウディアラビアにも適用した(1943年)。武器貸与法とは、米大統領が米国の防衛に必要と考える諸国に軍需品を貸与する権限をもつことを認める法律で、ルーズベルト本人が議会で成立させたものであった。アブドルアジーズ王は米国から3,300万ドル(800万ポンド)の援助を受け、さらに戦後に見込まれる原油販売量に係わるロイヤルティーの前払い金として150万ポンドをカソックから受け取ったので、王の財政逼迫状況は緩和された。

 

さらに米国は、サウディ政府が米政府に対してサウディ原油の供給を保証する見返りとしてアラビア湾東岸から地中海に至る石油パイプラインを敷設することを提案した。戦時態勢の中でこの提案は実行に移されなかったが、1943年、米政府はラス・タヌーラに日産5万バレルの製油所を建設する計画を立てた。このプロジェクトは大規模な製油所、貯油タンクヤード、搬出施設を建設するだけでなく、バハレインで拡張中のバプコの製油所とを結ぶ海底パイプラインも含まれていた。戦時態勢の厳しい制限の中から貴重な鉄鋼資材が割り当てられ、トラックや建設機材のやりくりがつけられ、優先的に労働力や物資が供給された。

 

1944年1月31日、カソックはアラムコと改称した。米国の全面的梃入れ政策により、これまで厳しい制約を受けていた操業に活気が蘇った。すでに1943年9月にイタリアが降伏しており、戦局は連合国側に傾いていた。米国国内の「もっと石油を」の声に呼応して、アブカイクやカティーフで油井の掘削が再開された。製油所建設も少しずつ進捗を見せた。しかし遠く離れた地球の裏側から輸送されて来る資機材はしばしば魚雷の犠牲になった。住宅の準備が整う前に従業員が到着したり、資機材の到着が前後したりする混乱が生じたが、1945年3月にはバハレイン製油所へのパイプラインが操業を開始し、日本の無条件降伏によって第二次大戦が終結した直後の1945年9月、ラス・タヌーラ製油所は操業を開始した。米国の戦時特別プロジェクトは大戦終結と同時に完了したのである。

 

こうしてサウディアラビアに足場を確保した米国は以後、シオニズム運動を支援してユダヤ人の国家イスラエルの建国を支持すると同時に、産油国に資本進出して国益を守るという二面性を打ち出し、中東における影響力を強めていった。

 

8-第二次世界大戦中の対外関係

第二次世界大戦は史上最大規模の戦いであり、人類史上未曾有の惨禍をもたらした。動員された兵士は1億1,000万を越え、航空機、戦車、潜水艦、鉄砲などの兵器の改良、さらに原子爆弾の開発などで、戦死者2,200万、負傷者3,500万を数え、ナチスによる600万のユダヤ人虐殺のほか空襲などによる民間人の死者も2,000万、負傷者も2,000万に及んだ。戦場も南北アメリカおよびその他の限られた地域を除く広範囲に及び、全人類の80%が巻き込まれる地球規模の戦争であったが、サウディアラビアは地理的およびアブドルアジーズ王のとった中立政策のおかげで大戦の影響を回避することができた。サウディアラビアが連合側に与して枢軸側に宣戦布告をしたのは第二次大戦終結の直前であった。

 

サウディアラビアが中立を通した間も米国から軍事上の支援を得ていたので、アブドルアジーズは連合軍航空機の補修維持のために米国がダハラーンに空港を建設・使用することを認めた。ただし、王は、サウディアラビアの国土は1インチたりとも譲渡しないこと、米空軍に対する土地の貸与は5年間に限られること、米軍はサウディアラビアを軍事的に占領してはならないこと、などの条件をつけた。1942年にサウディアラビアに米国公使館が開設され、1944年にはサウディアラビアもワシントンに公使館を開いた。これが現在の大使館の前身である。

 

1945年2月、アブドルアジーズ王はエジプトでルーズベルト大統領と会談し、次いでチャーチル首相と会った。ルーズベルト大統領との会談では後述するようにパレスチナ問題が最重要話題であった。全アラブ世界が関係する重大な問題で米国がアブドルアジーズ王の了解を取り付けようとしたことは、王がすでにアラブ世界を代表する指導者であると評価されていたことを物語っている。

 

1945年3月にアラブ連盟が結成されたが、ここでもアブドルアジーズ王は主導的な役割を演じた。第一次大戦後以来、アラブ民族の独立育成と主権確立を唱導してきた彼は、エジプト、イラク、レバノン、シリア、トランスヨルダン(現在のヨルダン)、イェメン、パレスチナ人民代表とともにアラブ連盟を結成した。これにより、アラブ民族共通の利益促進のためにアラブ諸国の結合を強化しようとする気運はさらに高まり、以後、アラブ民族の政治的発言権は著しく伸長した(のちにリビア、スーダン、モロッコ、チュニジア、クウェイト、アルジェリア、カタル、バハレイン、オマーン、アラブ首長国連邦、モーリタニア、ソマリアなどが加盟し、1998年現在加盟国は21カ国1機構(パレスチナ解放機構PLO)を数える。本部はカイロにある)。

 

またこの時アブドルアジーズは設立準備中の国際連合原加盟国に名乗りを上げ、息子のファイサル王子を団長とする代表団をサンフランシスコ会議に出席させている。

 

9-国内開発に邁進

米国の石油会社がこの国の膨大な石油資源を掘り当てたことで、サウディアラビアと米国との関係は第二次大戦中に急速に緊密になり、サウディアラビアの国際的地位は戦後大きく飛躍した。石油の本格的生産が再開されると国庫は潤い始め、アブドルアジーズ王はサウディアラビアを部族的・地域的社会から近代的・中央集権的国家へと改造するという長年来の夢の実現に向けて邁進した。

 

最も急を要したのは教育であった。アブドルアジーズ王はすでに1924年にはマッカのウラマーに宗教教育と読み書きの普及に努力することを要請し、1926年にヒジャーズを併合した時には国民教育局を設置して小学校開設の準備を進め、同年マッカにアジージーヤ小学校、ラハマーニーヤ小学校、サウーディーヤ小学校、ファイサリーヤ小学校の4校の開校に漕ぎつけた。1945年、第二次大戦後の本格的な石油生産による収入の増加を背景に彼は学校建設計画を大幅に拡大し、エジプト、シリアなどからも教員を採用した。1951年には226校、教員は1,217名、就学生徒数は29,887名にのぼった。なお、サウディアラビアの公立の学校では授業料、教科書ともに無料である。

 

サウディアラビアの広大な国土は不毛の砂漠がほとんどで、耕作可能な土地は1パーセントにも満たない。したがって食糧の供給は常に不安定で、もし旱魃に見舞われようものならたちまち食糧危機にさらされる。王はかねてより民生の安定に最も必要なものは入植農業であると考えていた。彼がその住民を平時には農業に従事させ、有事の際は兵士として徴用した同胞団と呼ばれる入植者の開拓村を創始したのはこの考え方にもとづくものであった。すぐれた古代アラビアの貯水・灌漑技術は何世紀もの部族抗争で失われていたので、1942年、アブドルアジーズは米国の農業技術専門家を招いて農業開発の可能性を調査してもった。また、水資源の確保にも常に意を用いた。

 

1950年代に入ると、主要都市を結ぶ道路網の建設が始まり、東西を結ぶ航空路も開業したほか、ジェッダ港の近代化、無線局の開設、電話網の充実、リヤード=ダンマーム国有鉄道の完成など、サウディアラビアの近代化は急速に進んだ。

 

長年の戦闘で自らが満身創痍となり、常に何らかの疾病に苦しんでいたアブドルアジーズ王は、国民の保健・医療についても絶えず心を寄せていた。ヒジャーズを征服した1926年、それまでのフセイン大公時代に放置されたままで劣悪を極めたマッカ巡礼者用医療施設を大幅に改善してムスリム社会の高い評価を得た。1940年代の後半になって石油収入が順調な増加をみせるとアブドルアジーズ王は医療関係予算を大幅に引き上げて病院やクリニックの建設に充てた。また、医療機関の拡張工事や改良工事などの期間、国民に対する診療が支障を来さないよう、米軍の野戦病院に命じて国民の治療に当たらせるという積極的な方法を講じたこともあった。

 

特筆すべきは、今日のサウディアラビアの政治経済体制の基礎がアブドルアジーズ王によって固められたことである。ことに彼が1952年に設立した、一国の中央銀行に相当するサウディアラビア通貨庁(SAMA)や、1953年に設置した閣僚会議(内閣)は後年への見本となり、今日の近代国家としてのサウディアラビアの要となっている。

 

10-ルーズベルトとの会談とパレスチナ問題への対応

アブドルアジーズが扱った問題のうち、彼を最も悩ませ、彼に最も重くのしかかったのはパレスチナ問題であった。第二次世界大戦勃発の当初、世界のどの国も、中東は英国勢力下の地域であり、中東で最も影響力を行使できる国は英国である、と考えていた。ところがアブドルアジーズには、中東全体においても、特にパレスチナだけに絞っても、中心的役割を演ずるのはもはや英国ではなく米国である、との予感があった。しかし米国は中東にまったく関心がなかった。英国勢力偏重の中東には新しい勢力の均衡状態を創り出すことが必要だと考えていたアブドルアジーズは米国の中東進出を打診した。当初米国は中東が遠すぎることと、英国の感情を害することを恐れて中東進出を躊躇していたが、わずか2年後の1943年、サウディアラビアを米国防衛上の最重要国と考え、武器貸与法の対象国に指定した。中東における米国の利権が増大していくことに英国は不快であったが、中東という世界の戦略的要衛に華々しく登場した新巨星米国の前に英国はもはやなす術がなかった。1945年2月、アブドルアジーズとルーズベルト大統領がエジプトで会見した。

スエズ運河のクインシー号上でルーズベルト大統領と会談するアブドルアジーズ王

19455月)

 

会談はルーズベルトの提唱により極秘裡に準備された。ルーズベルトの意図は、()大戦終了後ユダヤ人難民をパレスチナに入植させるにつきアブドルアジーズ王の了承を取り付けること、()連合国が戦後に設立を計画中の国際連合は大戦の戦勝国を原加盟国とするのでサウディアラビアに中立を放棄して連合側につくよう要請すること、()カソックの利権区域拡大を含む石油関係諸問題を討議すること、などであったが、アブドルアジーズ王に対しては単に、ヤルタからの帰路エジプトに立ち寄るのでその機会をとらえてお会いしたい、と申し入れた。このヤルタはクリミア半島の町で、ここに1945年2月4日から11日までルーズベルト、チャーチル、スターリンが会してドイツの分割管理、ソ連の対日参戦と樺太・千島の領有などを合議した(この会談をヤルタ会談という)。

 

アブドルアジーズ王はルーズベルトの申し入れを受け入れ、会談は2月15日、スエズ運河のアルブハイラ・アルムッラ・アルクブラー(苦い大湖の意)に停泊する米国巡洋艦クインシー号上で行われることとなった。アブドルアジーズ王が国外に出たのは1916年に駐イラク英国民政長官サー・パーシー・コックスの招待でバスラへ行ったのが初めてで、このエジプト訪問は彼にとって2回目の海外旅行であった。

 

王とその一行は200台の自動車を連ねて2月初めリヤードを出発した。側近のわずか数人を除き、一行の誰もが行き先はマッカと知らされていた。何泊か野営をしたのちの2月12日早朝、一行のうちの限られたグループだけがジェッダ港に向かい、待機していた米国の戦艦マーフィー号に乗船した。マーフィー号がスエズ運河の「苦い大湖」に浮かぶクインシー号に到着するまでの2日間、米国海軍は王に対空速射砲の演習や水中爆雷の実演をして見せたり、航空母艦の記録映画を上映した。王が初めて映画を見たのはこの時であった。王は前甲板に張ったテントに乗員を招じ入れてアラブ式の食事でもてなし、マーフィー号艦長は王に乗船記念品として機関銃と双眼鏡を贈った。

 

70歳に近くなったアブドルアジーズ王は、かつての戦いで受けた古傷のために関節炎が悪化し歩行が極度に困難となっていた。マーフィー号に乗る時もクインシー号に乗り移る時も、タラップを歩いて昇降することができなかったので、ボートの中に入って引き上げてもらうほどであった。

 

クインシー号におけるルーズベルト大統領との会談は食事をはさんで6時間以上に及び、多くの問題が討議された。とりわけ話題がパレスチナ分割問題に及んだ時、アブドルアジーズ王は毅然として反対の態度をとった。「ドイツ人はユダヤ人に自分たちの土地を与えて罪を償うべきであるのに、なぜ関係のないアラブ人の土地をユダヤ人に分け与えるのか。アラブ人がヨーロッパのユダヤ人に危害を加えたというのか」。

 

彼はルーズベルトに対し、熱弁をふるって自らの主張を縷々説明した。彼の主張は、()ユダヤ人はドイツの最良の土地を与えられるべきだ。ドイツはユダヤ人に与えた損害を賠償し、彼らの面倒を見、犯した罪の償いをせよ、()アラブの友情は友人に差しのべられるものであり敵には提供されない、()西側諸国がユダヤ人のことをそれほど心配するのなら、なぜ50を超える連合側諸国がユダヤ人を分担しないのか、()ユダヤ人の国を承認しないアラブの決意は固い。そのような国を建設・維持しようというのなら武力によるしかないだろう、()パレスチナ問題の合理的かつ唯一の解決法は「アラブの土地はアラブに」だ。他のいかなる方法も人道的に受け入れられざる侵害となろう、というものであった。

 

ルーズベルト大統領は、アブドルアジーズ王との会談にのぞむ前に、補佐官や国務省の担当官らから、親シオニスト政策の危険性について具申を受けており、米国国内のシオニスト活動がアラブ諸国との友好関係に重大な弊害をもたらすことをよく認識していた。また、国務省が作成したアブドルアジーズ王に関するメモも読んでいた。それには、「王が信仰に誠実であること、および、王がムスリムの指導者のひとりであり、マッカとマディーナの二大聖地の守護者であり、ムスリム社会の権利の擁護に専心していることは、あらゆる面から見て真実である」と書かれていた。それだけに彼はアブドルアジーズ王の熱弁によく耳を傾け、米国はユダヤ人に対してアラブ人との対立関係を激化させるような支援を行わないことや、いかなる問題もアブドルアジーズ王と充分協議して決定することを約束した。

 

次いでルーズベルト大統領はアブドルアジーズ王に対して、連合国が戦後に設立を計画中の国際連合は大戦の戦勝国を原加盟国とするので、サウディアラビアは中立を放棄して連合側につくよう要請し、王はこれに同意した。サウディアラビアは国際連盟には加盟していなかった。なぜならアブドルアジーズが、国際連盟を小国の利益を保護し戦争を未然に防ぐ機能をもつ機関であるとは思っていなかったからである。しかし王は、国産連合の原加盟国すなわち設立メンバーになることに積極的であった。彼の最大の心痛事であったパレスチナ問題の解決を、この新しい国際機関に期待したからであった。国際世論がパレスチナの割譲に傾くなか、王は分割案に真っ向から反対していた。世界平和の維持機関として新しく発足する国際連合においてアラブ諸国が一丸となって分割を阻止せねばならなかった。そのためにはサウディアラビアも国連に一議席を占めることが必要であった。アブドルアジーズ王は翌月にはファイサル王子をサウディアラビア王国代表としてサンフランシスコ会議に出席させた。この会議には原加盟国51カ国の代表が会し、国際連合憲章が制定された。

 

最後に二人は石油関係諸問題を討議し、アラムコの利権区域の拡大や、サウディアラビア東海岸からレバノンのシドンに石油を輸送するパイプライン(タップラインと呼ばれる)の建設などが合意された。

 

膝の関節炎に悩んでいたアブドルアジーズ王にルーズベルトは自分が使っているのと同じ車椅子をプレゼントし、さらにDC‐3型飛行機1機を贈った。これが今日のサウディアラビア航空の最初の1機となった。

 

会見を終えてワシントンに帰ったルーズベルトは、議会に「パレスチナ問題に関するおびただしい外交書簡や報告よりも、アブドルアジーズ王から数分の間に学んだことの方がはるかに大きかった。このアラブの指導者は理路整然として確信に満ち、自分の立場を明快に説明した」と報告している。この会談はルーズベルトにアラブ世界の存在を再認識させ、パレスチナの分割がいかに危険で重大な過失となるかを認識させた。結局、ルーズベルトは分割について慎重になり中立の立場をとったが、これはアブドルアジーズ王の外交手腕の功績であった。ルーズベルト大統領は1945年4月に急逝したが、その1週間前にもアブドルアジーズ王に対して、反アラブ運動をとらないことを再確認している。

 

ところが後継者トルーマンによってルーズベルトの誠意ある約束は反古となった。米国はシオニズムを支援してアラブに対立するイスラエルの育成に力を入れる一方で、中東石油権益の拡大に強い関心を寄せる二面的態度をとった。1947年、米国は国連のパレスチナ分割案を承認した。当然、アブドルアジーズはトルーマンに対して、ルーズベルトとの約束を持ち出し、アラブの土地の分割という理不尽で反人道的なやり方を思いとどまらせようとしたが、その努力は徒労に終わった。結局、アラブ=ユダヤに分割されたパレスチナにイスラエル共和国が建設され(1948年5月)、米国はこれを承認した。アラブ連盟諸国はただちにイスラエルに対して戦端を開いた。このパレスチナ戦争で170万人のアラブ難民が他国に非難し、アラブ・ゲリラの闘争が日常化し、以後、抗争は泥沼化していった。

公式晩餐会でチャーチル首相とアブドルアジーズ王(ファイユーム、1945年2月17日)

 

アブドルアジーズ王は、ルーズベルト大統領との会談後、カイロ南西100キロのオアシスの町ファイユームでチャーチル首相とも会った。この会見は、ルーズベルトとアブドルアジーズが会うことを知ったチャーチルがライバル意識から申し入れたもので、特段の話題はなかった。ルーズベルトが車椅子やDC‐3型飛行機をプレゼントしたことを聞いて、チャーチルはアブドルアジーズ王に特別注文のロールスロイスを贈った。ところが、この英国の右ハンドル車はサウディアラビアには適当ではなかった。左手を不浄と考え、右手や右側を上位と考えるアラブ世界では客人を自分の右側に座らせるのが礼儀である。湾岸諸国の元首は自動車の前の座席つまり運転席の隣に座を占めることが多い。もし車が右ハンドルならば元首は運転手の左側に座らねばならないことになり、彼は運転手の下手に座る屈辱を潔しとはしない。結局アブドルアジーズ王はチャーチル首相から贈られた高級車を一度も使用しなった。そこで英国は王に実用的なプレゼントをした。視力の衰えた王がどこにいても使えるよう眼鏡365個を進呈したのであった。

 

11-砂漠の獅子の死

1945年8月、日本の無条件降伏により第二次世界大戦は終わった。

 

すでに70歳近くになったアブドルアジーズ王の視力はとみに衰え、歩くこともままならなくなっていたが、気力は横溢し、意欲的に国の近代化に専念していた。

アブドルアジーズ王がエジプトを訪問し、ファールーク国王と親衛隊を閲兵

(カイロ、1946年1月)

 

1946年1月、アブドルアジーズ王はエジプトのファールーク国王の招待に応じ、国賓としてエジプトに2週間滞在した。王がその生涯に国外に出たことは3度しかなく、これが3度目であった。アブドルアジーズはファールークが差し向けた豪華ヨットにジェッダ港から乗り込んだ。ヨットがスエズ運河南端のタウフィーク港に着くとそこにファールークがアブドルアジーズを出迎えに来ていた。一行はスエズ駅から王室専用列車でカイロに向かった。アブドルアジーズ王が鉄道に乗ったのはこの時が初めてであった。カイロのラムセス中央駅からアブディーン宮殿まで、列車は沿道を埋め尽くした民衆の歓声の中を進んだ。エジプト滞在中、アブドルアジーズ王はこのアブディーン宮殿とアレキサンドリアのラァスッティーン宮殿にも宿泊し、その間ファールーク国王と技術面、教育面での援助を得るための交渉をおこなった。このエジプト訪問はサウディアラビアの近代化に具体的な成果をもたらした。1951年に首都リヤードと東海岸の代表港ダンマームを結ぶリヤード=ダンマーム国有鉄道が完成したのもその成果のひとつであった。

 

強健な肉体と堅固な意思の持ち主であった王は着実に晩年の下降期に入っていた。腸骨(腰骨の一部)には銃弾が貫通した穴が2ヵ所あり、右足には深い刀傷が生々しく残り、長い戦闘で受けた古傷は王の体を蝕んでいた。とくに両膝の肥大性関節炎は王に堪え難い苦痛を与えていた。左目はトラコーマによる角膜の損傷で失明していた。

 

アブドルアジーズ王を落胆させ激怒させたのは、1948年、パレスチナに新国家イスラエルが誕生した結果、170万というアラブの同胞が国を失ったことであった。この年、産油国ベネズエラが利益配分率50対50を実現した。これを機にサウディアラビアも石油収入の極大化に積極的に取り組むようになり、1950年12月にはアラムコとの間で50対50の利益配分の獲得に成功した。

 

アブドルアジーズ王がマッカに巡礼したのは1951年が最後であった。閣僚会議設置を定める勅令に署名したあとの1953年8月8日、王は静養のため、かつてルーズベルト大統領から贈られたDC‐3でターイフに赴いたが、同年11月9日、駆けつけた王族の見守る中、ファイサル王子の腕の中で息を引きとった。世界で最も長く王位にあって、君臨するだけでなく統治もした元首は永遠の眠りについた。遺体はただちにリヤードに運ばれ、サラフィーの慣習に従って葬儀も墓標もなしに埋葬された。今日その在処を知る者はほとんどなく、訪れる者もない。しかし、アブドルアジーズ王はサウード家の人々とサウディアラビア王国国民の心の中に生き続けている。

今日のサウディ政府閣僚会議

 

 

 

 

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」

日本サウディアラビア協会出版

 

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